自然を感じる – SANYO CHEMICAL MAGAZINE /magazine Fri, 11 Oct 2024 05:19:44 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.5 /magazine/wp/wp-content/uploads/2020/09/cropped-sanyo_fav-32x32.png 自然を感じる – SANYO CHEMICAL MAGAZINE /magazine 32 32 [vol.8] 世界で最も暑いダナキル砂漠を歩く /magazine/archives/8292?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=vol-8-%25e4%25b8%2596%25e7%2595%258c%25e3%2581%25a7%25e6%259c%2580%25e3%2582%2582%25e6%259a%2591%25e3%2581%2584%25e3%2583%2580%25e3%2583%258a%25e3%2582%25ad%25e3%2583%25ab%25e7%25a0%2582%25e6%25bc%25a0%25e3%2582%2592%25e6%25ad%25a9%25e3%2581%258f /magazine/archives/8292#respond Fri, 11 Oct 2024 05:15:15 +0000 /magazine/?p=8292 PDFファイル 文・写真=探検家 関野吉晴     猛暑の地で生きる敬虔なイスラム教徒たち アファール族が住むエチオピアのダナキル砂漠は、夏には摂氏60℃近くにもなる世界で最も暑い地の一つとして知られ…

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文・写真=探検家 関野吉晴

 

塩の採掘に向かうラクダの行列

旅程:2001年9月 エチオピア、ダナキル砂漠

 

猛暑の地で生きる敬虔なイスラム教徒たち

アファール族が住むエチオピアのダナキル砂漠は、夏には摂氏60℃近くにもなる世界で最も暑い地の一つとして知られている。熱帯に位置するダナキル砂漠は、場所によっては標高が海面より低く、海抜マイナス115メートルにもなる。アファール族はアラビア半島の南部をルーツとし、現在はエチオピアのほかに、ジブチやエリトリアにも暮らしている独自の言語を持つ敬虔なイスラム教徒だ。大人たちが礼拝を欠かさないことはもちろん、子どもたちも1日3回、1時間ずつコーラン学校でコーランを読む。

学校といっても整備された教室があるわけではなく、昼間は木陰で、夜は焚き火を囲んでアラビア文字のコーランを元気よく朗読していた。何年もの間、代々の子どもたちに読み継がれてきたのだろうか、子どもたちが手にしたコーランはみな破れたり擦り切れたりしていた。板に書かれたコーランを読んでいる子もいた。

左:ラマダン(断食月)が明けた朝 。モスクの近くにたくさんの人が集まり、笑顔を見せている
右:焚き火を囲んでコーランを読む子どもたち

 

塩の交易を通した異教徒との共生

熱帯のこの厳しい環境にも人間の営みはある。私はそこで行われている塩の交易を見るために、エリトリア国境に近いアサレ湖に向かった。塩切り場では、アファール族がつるはしで割れ目を作り、そこに先を尖らせた丸太をこじ入れて塩を掘り起こしていた。掘り出した塩は同じ大きさにそろえられる。そして、ラクダやロバの背に載せて高地に運ぶのはキリスト教徒のティグレ族だ。

塩切り場はこの土地の者たちさえも耐えられない猛暑のため、ここに泊まる者はいない。できるだけ早く塩を切り出し、日射病になる前に帰ろうとする。また脱水症を避けるために彼らはヤギの皮で作った水筒に飲料水を入れている。この水筒は保冷性に優れており、気化熱で水が熱くならないのだ。焼けるような暑さだが、乾燥しているので、短時間なら耐えられる。

ここの塩の採掘は、その多くを人的作業に頼るので、海で採れた塩と比べると高価だ。彼らに「なぜ家畜に高価なアサレ湖の塩を与えるのか」と尋ねると、「このアサレ湖から運ばれる塩のほとんどは家畜に与えられます。ここの塩を摂った家畜はミルクの出がいいんだよ」と言う。アサレ湖があるダナキル砂漠の塩は依然需要が高く、この地の塩の交易は将来も続きそうだ。

塩の採掘

貧しいなかでも満ち足りた「足るを知る」暮らし

塩掘りは乾期の一時的なものであり、アファールの人たちはそのほかの期間は家畜の放牧で生計を立てる。2001年9月11日、私はアフリカでも最も貧しい国の一つ、エチオピアを旅していた。そのエチオピアでもアファールの人々はさらに貧しい。私が出会ったアリさんも、けっして裕福というわけではない。数頭のラクダとロバ、100頭近いヤギを所有している。しかし子どもたちが多いので、経済的に楽ではない。にもかかわらず、見ず知らずの私たちに2頭の子ヤギを殺してご馳走してくれた。旅人をもてなすことが、彼らにとって大切な習慣なのだ。

「もっと家畜が増えるといいですね」とアリさんに言うと、「いや、これで十分ですよ」と答える。「えっ、これで、十分なんですか」と聞き返すと、「ええ、私には十分ですよ。神から授かった家畜をこんなに持っているのですから。それに家族みんな仲がいい。幸せですよ」とふくよかな笑顔を見せた。

余計な欲望を取り払ったアリさんの暮らしは、人間として満ち足りているものだと納得できる。欲望をあおられることで大量に消費し、物質的な豊かさの陰で大量のごみの処理に困っている私たち。忙しさに追われていつも疲れた顔をしている私たちより、アリさんのほうがゆったりとした顔をしている。文字通り「足るを知る」アリさんたちの暮らしぶりは、物質的な欲望をかきたてられ、止めどもなく広がる欲望のままに生きている私たちの対極に位置している。彼らの欲望を抑えているのは唯一神「アッラー」の存在だ。地球の人口はこれからも増加するだろうが、資源は有限であることに誰もが目を背けている。人類は物質的な欲望を抑えなければならない時代を迎えている。人類のとめどもない欲望を抑えるために、今後は目に見えないものへの畏敬の念が大きな働きをするかもしれないという予感がした。

 

アリさんの家族の女性。ヤギを放牧している

エチオピアでは9月11日が元日だ。世界中で暦は異なり、西暦だけが暦ではないと改めて考えさせられる。そしてアリさんと一緒にラジオを聴いていた時、同時多発テロが起こったことを知ったのである。アリさんの反応で印象的だったのは、「誰がこんな事件を起こしたんだろうね。ひどいことをするものだ。しかし、米国は今まで散々ひどいことをしてきたので、その天罰が下ったのでしょう。被害にあった人たちには気の毒ですけどね」という言葉だった。

アリさんは「あなたたち日本人もひどい目に遭いましたね」と言う。米国が繰り返してきた悪行のなかで彼がトップに挙げたのは、なんと太平洋戦争末期の米国による「広島、長崎への原爆投下」だった。

 

関野 吉晴〈せきの よしはる〉

1949年東京生まれ。一橋大学在学中に同大探検部を創設し、アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。1993年から、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千kmの行程を遡行する旅「グレートジャーニー」を開始。南米最先端ナバリーノ島を出発し、10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」は2004年7月にロシア・アムール川上流を出発し、「北方ルート」「南方ルート」を終え、「海のルート」は2011年6月13日に石垣島にゴールした。

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[vol.7] アラスカ南東フィヨルド シーカヤックの旅 /magazine/archives/7939?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=vol-7-%25e3%2582%25a2%25e3%2583%25a9%25e3%2582%25b9%25e3%2582%25ab%25e5%258d%2597%25e6%259d%25b1%25e3%2583%2595%25e3%2582%25a3%25e3%2583%25a8%25e3%2583%25ab%25e3%2583%2589%25e3%2580%2580%25e3%2582%25b7%25e3%2583%25bc%25e3%2582%25ab%25e3%2583%25a4%25e3%2583%2583%25e3%2582%25af%25e3%2581%25ae%25e6%2597%2585 /magazine/archives/7939#respond Thu, 11 Jul 2024 06:37:37 +0000 /magazine/?p=7939 PDFファイル 文・写真=探検家 関野吉晴     カヤックに乗って、アラスカ南東部の自然を堪能 8月1日。プリンス・ルパートからカヤックで海に出た。これから1カ月余りかけてアラスカ南東部の沿岸水路、…

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文・写真=探検家 関野吉晴

 

ザトウクジラのブリーチング

旅程:1996年8~9月 アラスカ南東フィヨルド
プリンス・ルパート~ヘインズ

 

カヤックに乗って、アラスカ南東部の自然を堪能

8月1日。プリンス・ルパートからカヤックで海に出た。これから1カ月余りかけてアラスカ南東部の沿岸水路、約800キロメートルを漕ぎ続けることになる。相棒は先鋭的なクライマーであり、ダイビング、シーカヤックでも一流のマルチ冒険家の渡部純一郎君だ。後にベーリング海峡も一緒に渡った。

カナダ内陸部とは植生ががらりと変わった。森が深い。周辺に集落がない時は、浜辺や近くの森の中にテントを張った。砂地に熊の足跡が残っていることもある。流木がたくさんあるので、料理はたき火でする。食事は、インスタントラーメンや雑煮などだ。熊のことを考慮に入れて、あまり匂いのしないものを選ぶ。おのずと脂肪分が少なく、質素なものになる。朝は早くから出発して、パドルを漕ぎながらパンをかじることが多かった。

 

 

ザトウクジラとの出会い

ハイダ、トリンギットなどのアラスカ先住民と交流しながら旅を続けた。この海峡ではザトウクジラをじっくりと見たいと思っていた。やがてその機会がやってきた。

 

左:ハイダとトリンギットが集会所に集まっているその民族衣装はアイヌ民族にも似ているように思える
右:ハイダが作るトーテムポールは子どもが生まれた時などの記念に建てる
クラン(家族や親せきで構成された集団)ごとに、決まった動物のモチーフが使われる

 

ザトウクジラが現れ、大きなジャンプである「ブリーチング」を勢いよくしてくれた。そうすると、こちらもだんだんぜいたくしたい気分になって、幻の光景とさえいわれてきたものまで見たくなる。「バブル・ネット・フィーディング」である。これは、クジラ同士の連携プレイによる魚の捕獲法だ。魚の群れの周りをクジラたちが円を描くように泳ぎ、泡を吐き出して獲物の魚たちを海面へ追い込む。

チャンスはすぐにやってきた。7頭ほどのクジラの群れを見つけて近づいていく。クジラは「シュルー」という音を立てて潮を吹き上げ、悠然と泳いでいた。しばらく泳ぎ続けた後、背中を丸めるようにして海面に躍り出る。それから尾ビレをピンと立てたまま潜っていき、ニシンの群れの下でらせん状に旋回しながら泡を出す。

泡は海面に上昇するにつれて円柱状の壁となる。壁に囲まれたニシンは上に向かって逃げ惑ううちに、大きな塊となるのだ。

クジラが潜った地点までカヤックを漕いでしばらく待っていると、機械が発するような人工的な、高音の澄んだ鳴き声が聞こえてきた。南海での交尾期の歌とは異なるメロディーだという。リーダーが中心になって歌う。1分間ほどで歌い終わると、いよいよ海面に上がってくるはずだ。海面を凝視していると、泡が噴き出てくる。たくさんの泡が集まって、水面の色が円形に淡くなる。その2、3秒後に、口を開けたクジラの顔が次々と現れた。大きく開いた口の中には、餌となる魚とともに、200リットル近い海水が飲み込まれているという。そして、くしのような歯を利用して海水を排出し、およそ50キログラムの魚を摂取するのだ。この季節、アラスカの海で、クジラは一日に約2トンの魚を食べるという。

アラスカの海は実に豊かだ。サケ、ニシン、オキアミ、タラがふんだんにいる。秋が来て寒くなると、彼らは再び約80日間かけて南の海へ戻っていくのだが、南の海には餌がない。北の海でたっぷりと食べておかなければいけないのだ。

しばらくクジラと戯れた後、私たちは北に向かってカヤックの旅を続けることにした。南東の風が強く、海はやや荒れていた。ちょうど追い風を受ける格好になって、私たちの二人艇はスピードを増した。

ふと気が付くと、カヤックの下の海が急に白っぽいエメラルドグリーンに変わった。

沖合を走っているつもりだったのだが、浅瀬だったのかと思った。だが次の瞬間、カヤックのすぐ脇に、ザトウクジラの巨大な背中が現れた。白っぽく見えたのはクジラの胸ビレだった。15メートル以上あるクジラが、カヤックの真下を通って浮かんだのだ。まるで、ファンタジーの世界だった。クジラから大きな贈り物をしてもらったような気持ちになった。

ほんの少しの間だけ私たちと並走し、クジラは姿を消した。カメラを取り出す余裕もなかったが、私は脳裏にしっかりとその光景を焼き付けた。この一瞬だけでも、アラスカ南東部沿岸をカヤックで漕いだ価値はあったと思った。

 

カヤックから撮影したザトウクジラの尾ビレ

 

世界中のあらゆる海に生息するクジラの特別な能力

クジラは不思議な動物だ。よく頭がいいといわれるが、バブル・ネット・フィーディングを見ていると、遺伝子に組み込まれた行動ではなく、学習によって獲得した採食行動に思える。

彼らは人類よりもはるかに古い歴史を持っている。化石資料からはおよそ4500万年前にパキスタン付近で生まれたといわれている。人類よりはるかに大先輩だ。そして、行動範囲が広いという点で人類ととてもよく似ている。

人類ほど地球上のあらゆる陸地に拡散し、適応した哺乳類はいない。熱帯雨林、砂漠、サバンナ、ステップ、極北など、地球上のありとあらゆる地域に移動し、驚異的な適応力で、各地に住んでいる。

適応力で陸の人類に匹敵するのが海のクジラだ。人類は陸地のほとんどの地域に広がったが、クジラは熱帯から極北に至るまで、地球上のあらゆる海に生息している。しかも驚くべきことに、クジラは一つの個体が熱帯から極北までを回遊するのだ。

人類に似ていて、特別な能力を持ったクジラに特別な感情を抱くのもわかる。しかし、だからといってクジラを食べてはいけないということにはならない。昔から生態系の一員として、クジラを殺し、食べてきた人たちもいるのだ。生態系を壊さなければ、生き延びるための捕鯨まで禁じることはない。

 

関野 吉晴〈せきの よしはる〉

1949年東京生まれ。一橋大学在学中に同大探検部を創設し、アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。1993年から、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千kmの行程を遡行する旅「グレートジャーニー」を開始。南米最先端ナバリーノ島を出発し、10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」は2004年7月にロシア・アムール川上流を出発し、「北方ルート」「南方ルート」を終え、「海のルート」は2011年6月13日に石垣島にゴールした。

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[vol.6] アマゾン熱帯林の民マチゲンガ(2) /magazine/archives/7595?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=vol-6-%25e3%2582%25a2%25e3%2583%259e%25e3%2582%25be%25e3%2583%25b3%25e7%2586%25b1%25e5%25b8%25af%25e6%259e%2597%25e3%2581%25ae%25e6%25b0%2591%25e3%2583%259e%25e3%2583%2581%25e3%2582%25b2%25e3%2583%25b3%25e3%2582%25ac%25ef%25bc%25882%25ef%25bc%2589 /magazine/archives/7595#respond Thu, 11 Apr 2024 06:03:09 +0000 /magazine/?p=7595 PDFファイル 文・写真=探検家 関野吉晴   熟練の技術で行う狩猟と、安定した供給のある採集   マチゲンガは狩猟・採集をして暮らしている。男が行う狩猟は、食料の獲得手段として、熟練の技術と労力を必…

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文・写真=探検家 関野吉晴

旅程:1973年6~11月 南米、アマゾン

 

熟練の技術で行う狩猟と、安定した供給のある採集

家族そろってだんらんのひと時

 

マチゲンガは狩猟・採集をして暮らしている。男が行う狩猟は、食料の獲得手段として、熟練の技術と労力を必要とする割には効率が悪い。これに対して採集活動は、季節ごとにどこに何があるかを予測できるので、老人や女、子どもたちでも時間をかければ十分できる。大人の男たちも、狩猟、漁労の行き帰りなどに密林の中で見つけたものをその場のおやつにするか、家族の元に持ち帰る。採集の対象は多彩だ。小魚やエビ、カニ、昆虫とその幼虫のほかに蜂蜜も食される。

採集は、女にとって大事な仕事だが、女の仕事はこれだけではない。酒作り、料理、生活用品や衣類の作成、育児、食料・まきの運搬などなど。男たちが狩りから帰るとごろごろと横になっているのと比べて、女たちは日の出から日が出ている間は働き詰めである。

採集は安定した供給を約束してくれる。採集物が逃げ隠れしないのに対して、狩猟の対象となるものはいつも見つかるわけではない。見つかっても捕獲できるかどうかは不確実だ。女の安定した食料の供給があって、初めて男は狩猟に打ち込めるのだ。

 

家づくりをしている様子。木で骨組みを作り葉で屋根を葺く

左:葉で屋根を補修する男性は、ゴロゴロの兄のソロソロ
右:母と娘が敷物を作っている。 家の上では男たちが屋根を補修している

物や食料に固執せず、平等に分け合う争いのない社会

大きな獲物やたくさんの魚が捕れた時には、大勢が車座になって食事をする

狩猟は採集に比べると重労働であるが、彼らがいかに喜々として狩りをするかは、一緒に旅してみるとわかる。彼らにとって重い荷物を背負って歩くことや、カヌーやいかだをこいだり押し上げたりすることは苦痛極まりない。早く前進したい私の意に反して、彼らは午後になると、前進を拒むようになる。もうくたくたになったから休もう、腹が減って動けないと私に訴える。彼らも役者である。いかにも疲れたという表情をする。しばらくは、先を急ぎたい私と早く休みたい彼らとの駆け引きになる。

14時頃に、私がその場での野営の決断をすると、疲れ果てているはずなのに、途端に彼らは生き生きとしてくる。そこに荷物を放り出し、へとへとだと言っていた人間が、弓矢を手に軽快な足取りでジャングルの中に入っていく。嫌な労働をするエネルギーはもうないが、狩猟のためのエネルギーは別物なのだ。

彼らは、捕ってきた獲物は平等に分ける。動物を解体して料理すると、料理を持ち寄り、男と女は別々に車座になって一緒に食べる。誰かがたくさん食べたり、いい部分を独占したりすることはない。

マチゲンガの人たちの物の動きを見ていると、私たちの社会とかなり違うことに気付く。物が、必要としている人に行き渡るのだ。誰も物に固執せず、その時必要がなければ欲しがっている人にあっさり譲ってしまう。同じ村の中で、たらふく食べている人がいる一方で、お腹を空かせた人がいる、ということはない。ここのような少人数の集団で独り占めなどすれば、限られた物や食料を巡って争いが起こる。平等に分けることによって、平和な社会を築いてきたのだ。

 

少年の初めての狩り

ゴロゴロ。手前にあるのは彼の手製の矢

長い付き合いのなかで、一番仲良くなったのはトウチャンとカアチャン夫婦の末っ子、ゴロゴロだ。1歳の頃から見ている。赤ん坊の頃、ゴロゴロは私と目が合っただけで泣き出し、母親の背中に隠れていた。けれどもマチゲンガでは、甘やかされるのはほんの赤ん坊の頃だけだ。2歳になると、ナイフで遊んでいても誰も止めない。けがをしながら、ナイフの使い方を覚えていくのだ。

6歳になると身辺のことは自分でできるようになり、10歳を過ぎると一人で森に行って獲物を捕るようになっていた。大人たちは誰も、手取り足取り教えない。ゴロゴロは父や兄たちに付いて行って、みんなの動きを観察し、小さなナイフと手作りの弓矢で獲物に立ち向かい、失敗を繰り返して学んでいく。誰もゴロゴロを子ども扱いしない。彼らには子どもをあやす幼児語はない。幼児から一人前に扱うのだ。

一度、ゴロゴロの狩りに付いて行った。自分で作った弓矢を片手に、森に入っていく。狙いはケンツォリというウズラ大の鳥だ。

鳴き声が聞こえた。ゴロゴロは私に音を出すなと指示した。近付いたと思ったら、移動して鳴いている。その日は収穫なしだった。兄たちから、朝早く行くといいよとアドバイスを受け、再び森に入った。確かに鳴き声が多い。しかし、近寄ると逃げてしまう。この日も収穫がなかった。

 

しばらくしてゴロゴロが再び森に行くと言うので、また付いて行こうとすると制止された。私の履いている靴がうるさいと言うのだ。どうせまた捕れないだろうと思って待っていた。かなり時間が経ってから、ゴロゴロが獲物を手に戻ってきた。うれしいだろうに、ぶすっとした表情で母親にケンツォリを渡して、自分のベッドでふて寝してしまった。彼は大人たちが獲物を捕ってきた時に倣って行動したのだ。獲物を捕ってきた者が威張ると、他の者が負い目を感じ、借りができたように感じてしまう。それを防ぐために、獲物を捕ってきた者はふて腐れ、申し訳ないような態度を取る。

彼らの社会は物質的に平等なだけでなく、心理的な平等も大切にしているのだ。本当はうれしくて仕方のないゴロゴロは、夜になると我慢できなくなって、捕れた時の様子をうれしそうに話し始めた。

 

木でやぐらを組み、解体したイノシシを燻製にする。
アマゾンでは肉がすぐ腐ってしまうが、15~20時間 ほどいぶすと、1週間ほど保存できるようになる

 

弓矢で魚を捕らえた。
川の浅い場所なら弓矢で魚が捕れる

 

関野 吉晴〈せきの よしはる〉

1949年東京生まれ。一橋大学在学中に同大探検部を創設し、アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。1993年から、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千kmの行程を遡行する旅「グレートジャーニー」を開始。南米最先端ナバリーノ島を出発し、10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」は2004年7月にロシア・アムール川上流を出発し、「北方ルート」「南方ルート」を終え、「海のルート」は2011年6月13日に石垣島にゴールした。

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[vol.5] アマゾン熱帯林の民マチゲンガ(1) /magazine/archives/7464?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=vol-5-%25e3%2582%25a2%25e3%2583%259e%25e3%2582%25be%25e3%2583%25b3%25e7%2586%25b1%25e5%25b8%25af%25e6%259e%2597%25e3%2581%25ae%25e6%25b0%2591%25e3%2583%259e%25e3%2583%2581%25e3%2582%25b2%25e3%2583%25b3%25e3%2582%25ac%25ef%25bc%25881%25ef%25bc%2589 /magazine/archives/7464#respond Fri, 19 Jan 2024 01:54:16 +0000 /magazine/?p=7464 PDFファイル 文・写真=探検家 関野吉晴     よそ者と交流のない先住民、マチゲンガ 今から50年ほど前、南米のアマゾンに地図の空白地帯がまだ残っていた時代の話だ。パンチャゴーヤと呼ばれる地域は、…

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文・写真=探検家 関野吉晴

弓矢で猿を射て、食料を調達する

 

旅程:1973年6~11月 南米、アマゾン

 

よそ者と交流のない先住民、マチゲンガ

急流では岩にぶつからないよう、いかだを降りて操作する。緩やかなところではいかだに乗り竿でコントロールする。積んでいるのは、叩くと毒汁を出すコーギという木。川に入れると魚が麻痺して浮く。人間がその魚を食べても麻痺するだけで、問題はない

今から50年ほど前、南米のアマゾンに地図の空白地帯がまだ残っていた時代の話だ。パンチャゴーヤと呼ばれる地域は、外部の人間を寄せ付けない未探検地域で、インカ帝国の首都があったクスコやマチュピチュから百数十キロメートルしか離れていない。インカ帝国が滅びた後、貴族の一部がそこに財宝を持って入っていった、失われた町パイティティつまりエルドラドがあるとも語り継がれている地域だ。またよそ者とはコンタクトのない先住民が暮らしていると聞いて、胸が熱くなった。

周到な準備の後、その先住民「マチゲンガ」に会いたいとペルーに向かった。飛行機、バス、トラック、カヌー、いかだを乗り継いで、2週間かけて、熱帯林に覆われた山の頂にある村に着いた。しかし、私が訪れた時、全員が真っ青な顔をして家から飛び出して、森の中に走り去って行った。

言葉のわかる案内人に、彼らを探してもらい、私が害のない人間であることを説明してもらった。その結果、家に戻ってきてくれた。彼らがいかによそ者を怖がっているかを思い知る事件だった。

1カ月も同じ屋根の下で、バナナ、ユカイモ、トウモロコシなどを食べて居候していると、だいぶ打ち解けることができた。そこで、彼らの名前を聞いてみた。ところが名前がないと言う。なおかつ私に名前を付けろという。どうせ冗談だと思って、父親と母親はトーチャン、カーチャン。子どもたちも、動きが緩慢な子はソロソロ、五男はゴロゴロなど、適当に付けたのだが、彼らはいまだにその名を使っている。年齢も聞いたが、彼らには数字が1、2、3までしかなく、それ以上は「たくさん」になるので、わからなかった。

逆に私に「どこの川から来たの?」と尋ねてきた。東京の国立市に住んでいたので、「多摩川だよ」と答えると「聞いたことないなあ! 遠いのか?」と聞かれた。2週間という表現は彼らにないので「満月から新月になるまでの期間だよ」と答えると「隣の川と同じくらいじゃないか。家族を連れてくれば」と同情されてしまった。

トーチャン一家の住む村。昔は2、3家族が暮らしていることが多かったが、今はもっと大勢が集まって住む。学校ができると人が集まる

 

14、15歳頃のゴロゴロ

 

森と川だけの世界 自然の循環の中で生きる

イグアナを襲うオセロット(やまねこの一種)。マチゲンガはオセロットは食べないが、イグアナはおいしい食料

 

彼らの頭の中にある地図は森と川だけでできている。海や砂漠などは見たことがないだけでなく、その存在さえ知らないのだ。

家に泊めてもらい、彼らの暮らしぶりをみていると、私たちとの違いに気が付く。家の中で、素材がわからないものがないのだ。彼らの使っているものは全て生物資源だけでできていて、必要なものは全て自然から取ってきて自分で作っているからだ。

さらに印象的だったのは、彼らのゴミ、排泄物、死体の扱い方だ。彼らも当然、バナナ、イモの皮や壊れた籠などゴミを出す。きれい好きな彼らはきちんと掃除をして、ゴミを集めて森の中に捨てに行く。これが森の動物や虫、微生物によって分解され、ちゃんと土に返るのだ。排泄物や死体も同じで、彼らは自然の中で用を足し、死体は土葬にする。彼らのゴミ、排泄物、死体は土になり、植物の栄養になり、それは動物の栄養になる。彼らは野生動物と同じように、自然の循環の輪の中にいるのだ。

それに対して、我々は自然の循環の輪から外れてしまっている。出るゴミは全て燃やすことで二酸化炭素に変換される。排泄物も最終的には固形化され、燃やされる。死体も、火葬により二酸化炭素になる。自然にはなんの役にも立たないわけだ。

コンゴウインコの群れ。マチゲンガにとっては食料。羽が大きいので安定した矢羽根としても使う

 

熱帯林を守るマチゲンガの焼き畑農業

木を斧で切り倒し、焼き畑を作る

 

ペルー・アマゾンの熱帯林で、マチゲンガは狩猟・採集をして暮らしている。狩猟は男の役割、採集は女性の役割だ。アマゾンには400を超える民族がいるが、ほとんどの民族が焼き畑をしている。

アマゾン・ハイウェーなどの拡張、牛の放牧、ダムの建設、金などの鉱物資源の開発などによって熱帯雨林の破壊が進んでいる。その中で先住民の焼き畑農業は特異な位置を占めている。

実際、アマゾンの森の中を歩いてみて、驚くことがいくつかある。陽光が地面に届いていないため、下生えが極めて少ない。周りを見渡してみる。すると同じ植物がほとんどないことに気付く。

見た目とは違い、もともとアンデス東斜面の土地は貧しい。うっそうと茂った樹冠で強い雨を支え、根の張り方や必要とする養分の違う多様な木々があることによって、かろうじて熱帯林は生き延びている。それがなければ、強い日差しで養分は昇華し、さらに強い雨で流出してしまう。

先住民たちは、多くの作物を混ぜて植え、2年経つと別の土地に移動する。そうすると数十年かかるが、再び森は回復する。一方、牧場や単一作物のプランテーションは強い日差しと強い雨に土地をさらすことになり、砂漠化し、不毛の土地になる。2年経つとは衰えるので化学肥料、農薬を使うことになる。さらに土壌が痛めつけられる。

またマチゲンガは自分たちが食べるために焼き畑をして、作物を食べ、そこで排泄している。しかし、プランテーションでは基本的に外で売るために栽培している。そのため、作物を外に運び出す。その土地の養分と水分を外に運び出してしまうのだ。

先住民の焼き畑農業こそが、その土地を最も有効利用し、なおかつ熱帯林を壊さない方法なのだ。生態学者の研究により、彼らがいかに熱帯林の生態学を熟知しているかがわかってきた。

大人が作ったいかだで遊んで操作を覚え、生活の技術を学ぶ子ども

 

弓矢でイノシシを狩り、いかだで帰る

 

関野 吉晴〈せきの よしはる〉

1949年東京生まれ。一橋大学在学中に同大探検部を創設し、アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。1993年から、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千kmの行程を遡行する旅「グレートジャーニー」を開始。南米最先端ナバリーノ島を出発し、10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」は2004年7月にロシア・アムール川上流を出発し、「北方ルート」「南方ルート」を終え、「海のルート」は2011年6月13日に石垣島にゴールした。

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[vol.4] 極北シベリアのトナカイ遊牧民とトナカイ橇の旅 /magazine/archives/7335?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=vol-4-%25e6%25a5%25b5%25e5%258c%2597%25e3%2582%25b7%25e3%2583%2599%25e3%2583%25aa%25e3%2582%25a2%25e3%2581%25ae%25e3%2583%2588%25e3%2583%258a%25e3%2582%25ab%25e3%2582%25a4%25e9%2581%258a%25e7%2589%25a7%25e6%25b0%2591%25e3%2581%25a8%25e3%2583%2588%25e3%2583%258a%25e3%2582%25ab%25e3%2582%25a4%25e6%25a9%2587%25e3%2581%25ae /magazine/archives/7335#respond Tue, 14 Nov 2023 07:24:24 +0000 /magazine/?p=7335 PDFファイル 文・写真=探検家 関野吉晴     遊牧民から学ぶトナカイ橇の操縦   私は、一度トナカイ橇そりに乗って旅をしたいと思っていた。それは1999年の冬に実現した。 極北シベリア…

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文・写真=探検家 関野吉晴

トナカイとともに暮らすコリャーク族の子どもたち

 

旅程:1999年2~6月 ロシア カムチャツカ地方、コリャーク自治管区

 

遊牧民から学ぶトナカイ橇の操縦

トナカイの群れ。ミキノ村の人々は夜中にトナカイを山に放ち、明け方にキャンプ地や家の近くに連れてくる

 

私は、一度トナカイそりに乗って旅をしたいと思っていた。それは1999年の冬に実現した。

極北シベリアのトナカイ遊牧民、コリャーク族のキャンプ地に着いた。トナカイが集まってくると、リーダーのアナトリさんが橇の扱い方を特訓してくれた。トナカイの体は思ったより小さい。西シベリアではトナカイに乗るが、そこのトナカイの体は大きいという。極北シベリアのトナカイに乗るのは無理だ。トナカイ橇は思ったより操縦性が良かった。1台の橇を2頭のトナカイが引く。ハーネスをたすきがけにして、橇とつなげる。首には手綱がかかっていて、馬と同じように引っ張ったり、緩めたりして進む方向を指示する。慣れてくると微妙なコントロールができるようになった。

むちはトナカイ橇独特のものだ。細い、150センチメートルほどのしなやかな枝の先に、セイウチの牙やトナカイの角で作った三角形の針が付いている。むちを振るって、その針先がトナカイの右脚の付け根に当たるようにする。一瞬、ぐーんと、スピードが増す。トナカイの視野は馬と同じように広い。前方に走りながら、後方も見える。いったんむちで右脚の付け根を叩くと、次の数回は、むちを振り上げて叩くまねをするだけで、トナカイは奮起して逃げるようにしてスピードアップする。

トナカイ橇の扱い方を習う筆者

 

特訓が終わって、いよいよトナカイ橇の旅が始まった。600頭のトナカイの群れを率いての旅だ。私は1台の橇を任された。

急な上り坂では、トナカイの負担を軽くするために橇から降りて歩く。急な下り坂が厄介だ。橇には、太さ1センチメートルほどのJ字状の先をとがらせたブレーキが付いているが、なかなか上手に扱えない。雪が軟らかければ乗り手の脚の裏もブレーキに使えるが、硬いとどうしても橇のほうがトナカイより速くなり、橇をトナカイの脚にぶつけてしまう。手綱などのひもが緩み、トナカイの脚に絡まる。状況によっては橇から降りて歩くほうが良い。

オホーツク海に出た。海は凍っていた。凍った海の上を走る。海岸と乱氷帯の間は比較的平らなので、思い切ってスピードが出せる。凍ったオホーツク海の上をトナカイ橇で走れるとは思っていなかったので、気が高ぶった。このまま方向を変えて走り続ければ、日本に行ってしまうのではないかなどと妄想しながら走った。実際、ここからバイカル湖やアンカレッジに行くよりも、日本のほうが距離的には近いのだ。

 

トナカイの赤ちゃんが生まれる春

オホーツク海から再び陸に上がり、ゴールのウスチパレン村に着いた。アナトリさんから、ミキノ村の放牧地に遊びにくるように言われた。

「四季を通じて一番好きな季節はいつですか」とみんなに尋ねると、全員が「トナカイの赤ちゃんが生まれる春ですよ。その季節は魚も捕れ、動物たちも動きが活発になり、南に行っていた渡り鳥も帰ってきます。狩りにも最適な季節ですからね」と口をそろえて言う。

出産のピークである4月下旬、再びトナカイ遊牧民のキャンプ地に戻った。ちょうど冬営地から、彼らの本拠地であるミキノ村に向かっている時期だった。トナカイの群れのすぐ横に、ストーブ付きのキャンバステントを張る。子トナカイにとっては、オオカミだけでなくキツネやカラスなども脅威になる。昼夜を通して、外敵から子トナカイを守らなければならない。いつもはトナカイを群れで見ているが、この季節は母子トナカイを個別に世話しなければならない。注意しないと、大人のトナカイが子トナカイを踏み殺してしまうこともあるという。

トナカイの出産を見た。まず前脚2本、それから頭が出てくる。それからは、少し時間がかかる。母トナカイは立ち上がったまま、狭い範囲を動き回る。やがて子トナカイが地面に産み落とされる。子トナカイはすぐには立てない。母トナカイはまだぬれている子をなめる。そのうちに子トナカイは前脚を突っ張って立ち上がろうとするが、体を支えきれず、よろけて倒れる。母親は子の匂いをいだり、なめたりしていたが、自分の産み落とした胎盤を食べてしまった。

1時間後、子トナカイがようやく立ち上がった。母親は子トナカイから少し離れる。子トナカイは付いていこうとするが、よろけて倒れる。やっとのことで追い付くが、母親は再び歩く。その距離を少しずつ伸ばしていく。4〜5時間も経つと、子トナカイは自由に走り回っていた。

生まれて間もないトナカイの赤ちゃんをなめる母トナカイ

 

厳しい生活環境下 手を差し伸べ合ってともに生き抜く

アナトリさんたちの住居。家から家へ移動する時は、テントを張る

 

冬営地を移動する直前、50キロメートル離れたウスチパレン村から女性が二人やってきた。海岸部では、今年は寒さのために魚もアザラシも捕れない。トナカイの肉が欲しくて、ここまで雪道を歩いてきたと言う。

放牧地では、早速トナカイを殺すことになった。今回は銃で射止めた。投げ縄を使うとトナカイが動き回り、子トナカイが踏み付けられる恐れがあるからだ。トナカイを解体すると、半分は自分たちの分、残り半分を女性たちに譲った放牧地のリーダーであるアナトリさんは「いつも助け合って暮らしているのですよ。彼らがたくさんのアザラシを捕った時は、私たちが譲ってもらうのです」と言う。

アナトリさんたちの夢はトナカイを増やすことだ。しかし、オオカミが増えるとトナカイは増えない。トナカイ遊牧民たちはトナカイを飼うだけでなく、オオカミ狩りをし、魚を捕る。主なたんぱく源を狩猟や漁労で調達することによって、トナカイは食べないようにしているが、野生の肉や魚が手に入らない時は、トナカイを殺さなければならない。本当はトナカイを売って、現金収入にしたいのだが、ほぼ自給自足で、暮らしていくのがやっとだ。苦しい暮らしでも、さらに苦しい立場の人には救いの手を差し伸べるアナトリさんに「優しさと強さとどちらが大切ですか」と尋ねると「もちろん優しさのほうが大切ですよ。強さはそれだけでは何の役にも立ちません」ときっぱりと言った。

苦しい環境のなかで人々は協力し、自然とも調和を取り、超自然的世界に対しては、おそれ、祈りながら、到底生きていけないように見える土地でしっかりと生きていた。

トナカイ橇を操縦している、コリャーク族のボリスさん

 

コリャーク族の女性はおしゃれで、
ビーズなど華やかな装飾のある衣装を身につけている

 

関野 吉晴〈せきの よしはる〉

1949年東京生まれ。一橋大学在学中に同大探検部を創設し、アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。1993年から、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千kmの行程を遡行する旅「グレートジャーニー」を開始。南米最先端ナバリーノ島を出発し、10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」は2004年7月にロシア・アムール川上流を出発し、「北方ルート」「南方ルート」を終え、「海のルート」は2011年6月13日に石垣島にゴールした。

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[vol.3] 漂海民バジョと暮らす /magazine/archives/7198?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=vol-3-%25e6%25bc%2582%25e6%25b5%25b7%25e6%25b0%2591%25e3%2583%2590%25e3%2582%25b8%25e3%2583%25a7%25e3%2581%25a8%25e6%259a%25ae%25e3%2582%2589%25e3%2581%2599 /magazine/archives/7198#respond Thu, 14 Sep 2023 01:17:22 +0000 /magazine/?p=7198 PDFファイル 文・写真=探検家 関野吉晴     サンゴ礁の海に暮らす平和の民   私が仲間と手作りのカヌーでインドネシアから日本に向かっている時、ボルネオ島の東側の海を通った。すでに太陽…

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文・写真=探検家 関野吉晴

家船で家族の記念撮影

 

旅程:2009年4月~2011年2月インドネシア、フィリピン、マレーシアに囲まれたスールー海

 

サンゴ礁の海に暮らす平和の民

生活感のある家船。漁師の船でないことがすぐわかる

 

私が仲間と手作りのカヌーでインドネシアから日本に向かっている時、ボルネオ島の東側の海を通った。すでに太陽は海に沈みかけ、近くには村の明かりも見えなかった。

いつものようにサンゴ礁の上にいかりを下ろそうと思って場所を探していると、何そうかの船が止まっているのが見えた。寄っていくと、船には女性や子どもたちも乗っていた。洗濯物が見え、魚が干してあった。漁をするための船と違って、生活感がある。私たちが到着すると、向こうから近寄ってきた。彼らこそ、私がずーっと会いたいと夢見ていた漂海民バジョだった。

インドネシア、フィリピン、マレーシアに囲まれた海に、バジョという漂海民が住んでいる。漂海民とは、海に住み、海を移動し、魚や貝、カニ、ナマコ、エイなどを捕って生きている人たちだ。主にサンゴ礁の海に暮らしている。

きれいな海はとても静かで、波が荒れることはめったにない。昔は、船に屋根を付けて生活できるようにしたぶねに暮らすバジョもたくさんいたが、今はほとんどの人が沿岸部や海の上に家を建てて住んでいる。わずかなバジョだけが、今も家船で生活している。

バジョの人々は、争いが嫌いだ。武器を持たない。バジョの住んでいる地域には、昔いくつかの王国があった。バジョは軍隊をつくらず、王に自分たちの身を敵から守ってほしいと頼んだ。守ってもらう代わりに海で魚や貝を捕って差し出したり、船をこいで働いたりした。王国同士の戦争や反乱が起こると、家船を動かしてさっさと別の地に移動し、そこで平和な国の王に助けを求めた。身勝手な王や財産のために、無駄な血を流すことはない。そうやって、今までしたたかに生き延びてきた。

バジョはお腹がすいたら、船から釣り糸を垂らせば魚が捕れる。少し海に潜ってもりで突いても魚が捕れる。潮が引けばシャコガイやウニが捕れ、浅瀬にはおいしい海藻が波に揺れている。いつでも食べ物が手に入るので、飢えることは決してない。将来の心配をしないでいいので、生活を切り詰めて貯金をする必要もない。自分たちの手で作った家船は静かで快適だ。ここはまるで、竜宮城に住んでいるようだ。

 

ビガガ家の子どもたち

家船の中、くつろぐビガガ一家

 

ビガガの家船に居候させてもらった。ビガガの長男、ムスターファは12歳。活動的で、賢そうな顔立ちをしている。日本の同じ年頃の子よりも小柄だが、ムスターファなくしては家族が困るほど働き者だ。10歳で出会った頃は船にたまった水抜きやまき集め、シャコガイ捕りなどの簡単な仕事を割り振られていた。その2年後にはもう大人の男たちの仲間入りをしている。釣りの名手で、毎日食べる魚のほかにも豪華な魚を釣り上げる。それを生かしておいて売るために、その魚の餌も釣る。網を張る手伝いもできるし、大きなわなで大きなシャコを捕る名人でもある。明るいうちに船にいることはめったにないほどの活躍ぶりだ。

大きなシャコをわなで捕ったムスターファ

 

長女インティライニはいつもニコニコしていて、よく歌っている。ここでは肌が白いことが美人の条件なので、インティライニも肌の手入れには気を使っている。米の粉に植物の汁を混ぜたものを顔や首筋に塗って、日焼け止めをするのだ。

女性はみんなおしゃれで、狭い家船の中にたくさんの服を持っている。髪型も、女性同士で研究しながら整える。インティライニは15歳だが、もう父親が決めた婚約者がいる。親が結婚相手を決めるのは、バジョでは珍しいことではない。インティライニも相手を気に入っている。

おしゃれをして小舟に勢ぞろい

 

満ち足りて生きる海の博物学者

漁の帰り道、見事な夕景になった

 

自然とともに生きているバジョは、月の動きに合わせて暮らしている。月は夜の明るさだけでなく、潮の満ち引きも決めるからだ。結婚式などの行事も満月の前後に行う。彼らは月に寄り添って生きている。月の大きさを表す言葉もたくさんある。コンパス、GPSを持たないため、航海の方角を決める時にも、月と太陽と星が大事な目印になる。

ビガガたちは、サンゴ礁のどこに行けばどんな生き物がいて、それがどのような動きをするのか、博物学者もかなわないほど、とてもよく知っている。人から教えてもらったり、経験によって得たりした、生きた知識だ。私たちのように都市に住む者は、複雑な機械とたくさんの情報に囲まれ、自分たちは優れていると勘違いしている。しかし、その機械と情報をバジョの世界に持っていっても役に立たない。人々は、そこで生きていくために必要な最高の知識と知恵を持っている。

世界中の人々が、テレビコマーシャルなどにあおられて、欲望のとりこになっている。「あれが欲しい」「これが欲しい」という行き過ぎた欲望が、私たちの地球に大きなダメージを与えている。

しかし家船に住むバジョの持ち物は多くない。テレビや洗濯機などの電化製品はなく、夜は灯油ランプがともるだけ。台所周りには、炊事道具と1週間分の砂糖、調味料、香辛料、水のみだ。漁に使う道具もあるし、おしゃれなので服も化粧品もあるが、家族全員分を合わせても一艘の家船に入る量だ。それでも彼らを見ていて、貧しいと感じたことはない。欲望に取りつかれずに、満ち足りて生きているからだろう。

シャコガイを干すビガガの妻

 

捕ったサメを解体するために引き上げる

 

関野 吉晴〈せきの よしはる〉

1949年東京生まれ。一橋大学在学中に同大探検部を創設し、アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。1993年から、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千kmの行程を遡行する旅「グレートジャーニー」を開始。南米最先端ナバリーノ島を出発し、10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」は2004年7月にロシア・アムール川上流を出発し、「北方ルート」「南方ルート」を終え、「海のルート」は2011年6月13日に石垣島にゴールした。

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[vol.2] アラスカの森で暮らす一家 /magazine/archives/6969?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2582%25a2%25e3%2583%25a9%25e3%2582%25b9%25e3%2582%25ab%25e3%2581%25ae%25e6%25a3%25ae%25e3%2581%25a7%25e6%259a%25ae%25e3%2582%2589%25e3%2581%2599%25e4%25b8%2580%25e5%25ae%25b6 /magazine/archives/6969#respond Wed, 12 Jul 2023 06:49:06 +0000 /magazine/?p=6969 PDFファイル 文・写真=探検家 関野吉晴     森林地帯の丸太小屋に住むハイモさんとの出会い   1996年、私はアラスカでブルックス山脈を写真家の星野道夫さんと一緒に歩くことになってい…

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文・写真=探検家 関野吉晴

ハイモさん一家が住む丸太小屋の前で

 

旅程:1996年8~11月アラスカ州(アメリカ)

 

森林地帯の丸太小屋に住むハイモさんとの出会い

上の写真の丸太小屋を訪ねると、ご家族がくつろぐ空間が

 

1996年、私はアラスカでブルックス山脈を写真家の星野道夫さんと一緒に歩くことになっていた。ところが、南東アラスカのフィヨルドをカヤックで移動している時、星野さんがカムチャッカ半島で取材中に熊に襲われて死亡したという訃報が入った。『グリズリー』という写真集も出版し、ヒグマについては誰よりも知っている星野道夫さんが熊に食べられてしまうとは、到底信じられなかった。

結局、ブルックス山脈には一人で行くことになった。星野さんの事故もあって、彼の友人や知り合いが私を心配し、ガイドを連れて行くようにとアドバイスをしてくれた。そこでライフルを扱えるガイドを紹介してもらった。それがハイモ・コースさんだった。

長身でせいかんな顔をしたハイモさんは、ユーコン川の支流であるポーキュパイン川のそのまた支流のコリーン川流域に、妻と二人の娘と一緒に住んでいる。その半径200キロメートル以内には誰も住んでいない。つまり北海道より広い土地に一家族だけで暮らしているということだ。

私はカリブーの群れを見るのは後にして、ハイモさん一家の暮らしが見たくなった。彼はその要望を快く受け入れてくれた。

河原や荒れ地でも着陸できるよう訓練したブッシュパイロットのダン・ロスさんのセスナで、1時間15分ほど森林地帯の上を飛んで、ハイモさんの山小屋のそばに着陸した。飛行場はなく、大小の石が敷き詰められた河原が滑走路だ。幅4メートル、奥行き5メートルほどの丸太小屋がトウヒの森の中に立っている。小屋は自然の中に溶け込むようだった。

 

広大な自然の中で暮らす4人家族

ダイヤモンドダストが降り注ぐ、アラスカの針葉樹の森

 

ハイモさんは1956年、ドイツのフランクフルトで生まれた。その後、両親とともにアメリカ合衆国ウィスコンシン州に移住し、20歳になると一人でアラスカに移住した。ハイモさんは「アラスカに移住した日が人生で最良の日だった」と言う。夫人のエドナさんは、1954年、セント・ローレンス島のサブンガで生まれたエスキモーだ。

ハイモさんとエドナさんは全く異なる文化のなかで生まれ育った。そんな二人の生活はうまくいかないと、ハイモさんの両親は結婚に反対した。同じような境遇で育った者同士でも離婚が多い合衆国だ。どちらかが、また二人ともが余程寛容でなければ続かないだろう。

「私たち夫婦は二人とも生まれ育った土地から遠く離れた場所で暮らしている。二人にとって、ここは生まれ育った環境とは全く違う。両親や兄弟の影響もない。お互い狩りが好きだし、食べ物の好みも似ている。町に住むよりも、森やツンドラに住むのが好きだ。そんなところが私たちが仲良く生活していく理由だと思うね」。ハイモさんはそう説明してくれた。

北アメリカのシンボル、ハクトウワシ

 

アラスカ最大の動物、ムースにぶつかると車さえも大破する

 

長女のロンダさんは11歳、次女のクリーンさんは8歳。二人とも小学生だが、もちろんここに小学校などない。

一家に世話になっている時、セスナが飛んできた。誰が来たのだろうかと見ていると、小学校の先生だった。彼は教材を持ってきて、その使い方をお母さんに教えて帰っていった。子どもたちは午前中、パソコンや教科書を使ってお母さんに勉強を教わる。午後は森や川が先生だ。外で遊んだり釣りをしたり、ノウサギを捕ったりする。6、7月の2カ月は家族そろって町に出る。この時期は蚊が大量に発生するからだが、集めた毛皮を売るためでもある。その間、子どもたちは学校に行って学び、友達をつくり、社会性を身につける。

姉妹がわなでノウサギを捕った

 

自然の恵みを享受しともに暮らすために

森のなかに仕掛けたわなにクロテンが掛かった

 

欧米では、毛皮のコートを着ていると、動物愛護団体や自然保護団体のメンバーからペンキをかけられることがある。わな猟師たちは、町に出てきても肩身が狭い。ハイモさんは言う。

「一つのビーバーの巣には4頭から5頭のビーバーがいる。私は一つの巣からは2頭までしか捕らない。クロテンのカップルは2匹から5匹の子どもをつくる。私はその全てを捕りはしない」。

たくさん動物を捕ればそれだけお金になるが、ハイモさんは野生動物を絶やさないように計画したうえで捕っている。一家の質素な暮らしぶりからは、誰よりも自然や野生動物を愛していることがわかった。

「都会に住む人たちは、自分たちが何を食べているのか理解していない。私たち人間は、石や砂を食べては生きていけない。動物や植物を食べて生きている。私にとって、動物は食べ物であり、衣類でもある」。

また「野生動物を食べることは大地を食べることだ」とハイモさんは言う。植物は大地から栄養を取り、それを食べる動物も人間も、そのおかげで生きていけるからだ。

ハイモさんたちは、野生動物を銃やわなで捕って食べ、その毛皮を売って暮らしている。私もファッションで野生動物の毛皮を身につけるのはどうかと思うが、ここ極北では、毛皮は防寒服や帽子、靴になり、化学繊維よりも安い。山奥に住む人々にとっては欠かせないものだ。私も犬ぞり旅行で身につけたことがあるが、吹雪でなければ、氷点下40度の野外でも寒い思いをしなかった。

私はその後、夏と初冬の2回ここを訪れた。また生涯にわたって交流できる家族ができてうれしかった。

凍ったムースの肉を切る時、ナイフは使えず、のこぎりを使う

 

 

関野 吉晴〈せきの よしはる〉

1949年東京生まれ。一橋大学在学中に同大探検部を創設し、アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。1993年から、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千kmの行程を遡行する旅「グレートジャーニー」を開始。南米最先端ナバリーノ島を出発し、10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」は2004年7月にロシア・アムール川上流を出発し、「北方ルート」「南方ルート」を終え、「海のルート」は2011年6月13日に石垣島にゴールした。

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[vol.1] 奥ヒマラヤのヤクのキャラバンに同行する /magazine/archives/6831?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e5%25a5%25a5%25e3%2583%2592%25e3%2583%259e%25e3%2583%25a9%25e3%2583%25a4%25e3%2581%25ae%25e3%2583%25a4%25e3%2582%25af%25e3%2581%25ae%25e3%2582%25ad%25e3%2583%25a3%25e3%2583%25a9%25e3%2583%2590%25e3%2583%25b3%25e3%2581%25ab%25e5%2590%258c%25e8%25a1%258c%25e3%2581%2599%25e3%2582%258b /magazine/archives/6831#respond Mon, 05 Jun 2023 04:51:29 +0000 /magazine/?p=6831 PDFファイル 文・写真=探検家 関野吉晴   厳しい荒れ地の生活に息づく祈り ヒンドゥー教徒の多いネパール南部から、北のドルポ地方に入ると、村の景観が大きく変わる。村の出入り口や高台にはチュルパ(仏塔)がいく…

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文・写真=探検家 関野吉晴

道程の半ば、ポクスンド湖を通過するキャラバン

旅程:2000年8月~11月 ドルポ地方(ネパール)

 

厳しい荒れ地の生活に息づく祈り

ヒンドゥー教徒の多いネパール南部から、北のドルポ地方に入ると、村の景観が大きく変わる。村の出入り口や高台にはチュルパ(仏塔)がいくつも立っている。経文を彫り込んだマニ石がいくつも積み上げられた塚が村のあちこちにある。また川のど真ん中の大きな岩にも大きく経文が彫り込んである。どの家にも、経文や馬の絵が印刷された5色の布からなる旗(タルチョ)がはためいている。仏教一色の世界が広がっている。

この地で最も慕われているのは僧だ。村の人口に対して僧院や僧の割合が極めて高い。アムチ(チベット医)も僧が兼ねる。薬草やはり、呪術を使って、村人を診療している。

北ドルポの人々は、昔チベットから移住してきた。森林限界より上の荒れ地での適応は困難を極めたと思うが、さまざまな工夫によって生き抜いてきた。隔絶された世界だったため、本場チベット以上に伝統的チベット文化が今も生き続けている。

この荒れ地で生き抜いていくために交易と移牧がある。また信仰が彼らの暮らしを支えている。農作物の不足、家畜の餌である草の不足、困難な交易の旅でのアクシデントなど、運不運が彼らの暮らしを支配している。不運が襲わないように、またより良き来世を求めて、彼らは祈り続ける。

チベット仏教最大の聖山カンリンポチェ(カイラス山)に巡礼に来た、母と娘の信者

 

北ドルポのナンコン谷では、9月中旬から大麦の収穫が始まっていた。黄金色の穂が風になびいているのを見ると、豊かな村に見える。しかし、ここでは村人は慢性的な水不足に苦しんでいる。ほとんど木も育たない。降った雨は、大地の中に蓄えられる前に流れ去ってしまう。水が不足しているので、現在以上に畑を増やすことができない。どうがんばっても半年分の作物しか取れないのだ。

収穫の風景を見ていると、彼らがいかに麦の一つひとつを大事にしているかがわかる。落ちこぼれた穂も、一つひとつ丁寧に拾い上げていく。

穂をとった後のわらも大切だ。冬の間は雪が降るので、草が見えなくなる。その間の羊やヤギの餌として重要なのだ。

穀物の不足分は、チベット系民族が得意としている交易によって補っている。この村から1日でチベットとの国境に着く。その北にはチベット高原が広がっている。塩湖の多いチベットでは、安い塩がたくさん手に入る。この塩をヤクの背に乗せ、キャラバンを組んでヒマラヤの南側まで運び、とうもろこしと交換する。北ドルポの人たちは、ヒマラヤの北と南を行き来することで生計を立てているのだ。

ナムド村の家の周囲に麦やそばの畑が広がっている

 

交易のため、険しい道をゆくヤクのキャラバン

幼い子の面倒は姉が見るのが通例

 

キャラバンの出発はチベット暦の9月17日に決まった。村人のほとんどがその日に出発することになった。

同行したラプケー一家は14頭のヤクを連れ、そのうち7頭に450キログラムの塩を乗せていく。残りのヤクには食料や鍋釜、テント、衣服を積んでいく。キャラバンの行程には2週間ほどかかる。険しい道が続き、5000メートル以上の峠を三つ越えなければならない。キャンプ地に着くと、燃料となるヤクのふんや枯れた低木を集める。ヤクの背に積んできた荷物で風よけを作り、食事を作り、テントを張って寝る。荷物を外したヤクは、山の上に放して餌を食べさせる。朝になると山に登ってヤクを探し出し、集める作業が大変だ。

村を出てから16日目にカリブンに着いた。商談は、まず村長同士の交渉で交換レートを決めてから個別に行われる。

この年のヒマラヤの南で、とうもろこしの収穫はあまり良くなかった。豊作ならば塩を高く買ってくれるのだ。さらにマイナス要因として、数年前からインド製のヨード入り塩が浸透してきている。値段も安い。しかしチベットの塩のほうが家畜には良いということで、いまだに商売になっている。彼らはしたたかな交易民だ。チベットの塩が売れなくなっても、代わるものを探して生き抜いていくことだろう。

お湯で顔を洗うラプケー家の姉妹

 

旅を通して成長する少年

10歳のペマ・アンジェンは、ヒマラヤ越えのキャラバンに参加するのは6回目だが、ヤクの世話を手伝うのは初めてだ。ヤクの背に荷物を載せる前に、暴れたり、動いたりしないように前足を縛る。彼はこの作業を難なくこなす。

次にくらをつけなければならない。角のないヤクに鞍をつける時は得意げに、きっちりとする。このヤクはやや小型なので、背の低い彼でも扱えるのだ。角で突かれることもない。次に角の付いた、大きなヤクに鞍をつけようとする。鞍を縛り付けるロープを向こう側に垂らし、腹の下を通して、こちら側で結ばなければならない。垂らしたロープをこちら側に持ってくる作業が彼にとっては鬼門なのだ。

大人ならば長い手で難なくロープに手が届く。ところが、小さな彼はヤクの腹の下に潜り込まなければならない。先日この作業をしている時、彼はヤクに顔を蹴られて大泣きしたのだ。その経験があるために、ヤクの腹の下に潜り込むのが怖いのだ。

そこで、ヤク追いで名誉挽回を目指す。投石器を扱う姿は一人前だ。時々、石を投げつける。休んだり、横を向いたり、列からはみ出してしまったヤクの尻に向かって投げる。うまく命中すれば、ヤクは驚いて前進する。彼は小学校に通っているが、旅によってより成長しているような気がした。

ヤクに荷を縛り付けるペマ・アンジェン

 

 

関野 吉晴〈せきの よしはる〉

1949年東京生まれ。一橋大学在学中に同大探検部を創設し、アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。1993年から、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千kmの行程を遡行する旅「グレートジャーニー」を開始。南米最先端ナバリーノ島を出発し、10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」は2004年7月にロシア・バイカル湖を出発し、「北方ルート」「南方ルート」を終え、「海のルート」は2011年6月13日に石垣島にゴールした。

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ゆる鉄ギャラリー /magazine/archives/3447?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2582%2586%25e3%2582%258b%25e9%2589%2584%25e3%2582%25ae%25e3%2583%25a3%25e3%2583%25a9%25e3%2583%25aa%25e3%2583%25bc /magazine/archives/3447#respond Thu, 16 Mar 2023 05:25:24 +0000 /magazine/?p=3447 中井 精也〈なかい せいや〉鉄道写真家 1967年東京生まれ。鉄道の車両だけにこだわらず、鉄道に関わる全てのものを被写体として独自の視点で鉄道を撮影する。広告、雑誌写真の撮影のほか、講演やテレビ出演など幅広く活動している…

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中井 精也〈なかい せいや〉鉄道写真家

1967年東京生まれ。鉄道の車両だけにこだわらず、鉄道に関わる全てのものを被写体として独自の視点で鉄道を撮影する。広告、雑誌写真の撮影のほか、講演やテレビ出演など幅広く活動している。 著書・写真集に『1日1鉄!』『デジタル一眼レフカメラと写真の教科書』など多数。株式会社フォート・ナカイ代表。公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員、日本鉄道写真作家協会(JRPS)会員。

 

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[最終回] 世界中の鉄道にあふれる笑顔たち /magazine/archives/6652?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e4%25b8%2596%25e7%2595%258c%25e4%25b8%25ad%25e3%2581%25ae%25e9%2589%2584%25e9%2581%2593%25e3%2581%25ab%25e3%2581%2582%25e3%2581%25b5%25e3%2582%258c%25e3%2582%258b%25e7%25ac%2591%25e9%25a1%2594%25e3%2581%259f%25e3%2581%25a1 /magazine/archives/6652#respond Thu, 16 Mar 2023 05:24:48 +0000 /magazine/?p=6652 PDFファイル 文・写真=鉄道写真家 中井精也 先日、高校時代に撮影した国鉄時代のローカル線の写真を何げなくSNSにアップした時のこと。今は三陸鉄道リアス線になっている国鉄盛線という路線の写真で、撮影したのは1983年の…

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PDFファイル

文・写真=鉄道写真家 中井精也

左上/大井川鐵道(静岡県)、右上/バングラデシュ鉄道(バングラデシュ)、
左下/サルデーニャ鉄道(イタリア)、右下/長良川鉄道(岐阜県)

先日、高校時代に撮影した国鉄時代のローカル線の写真を何げなくSNSにアップした時のこと。今は三陸鉄道リアス線になっている国鉄盛線という路線の写真で、撮影したのは1983年の夏。当時、鉄道研究部に所属していた僕が、列車に乗る直前に何げなく撮ったスナップ写真です。僕はれい駅に進入してくる気動車をメインに、ホームに立つ身重のお母さんと手をつなぐ女の子を入れて撮影しました。

するとSNSに上げた写真を見た女性から「これは私の家族です!」というメッセージをいただきました。その女性は写真に写っている人物ではなく、なんとお母さんのおなかの中にいた赤ちゃんでした。写真に写っているお母さんとお姉さんは今もお元気で、この写真がきっかけとなり思い出話に花が咲いたそうです。

お母さんが着ているマタニティーウェアは、今も大切に持っているということ。お姉さんのかぶっていた帽子は、今は亡き祖父が買ってくれたものだということ。女性はこれまで知らなかった、家族にまつわるエピソードを知ることができてタイムスリップしたかのような気持ちになりましたと伝えてくれました。そしてメッセージには、3人の今の姿を捉えた1枚のスナップ写真が添えられていたのです。わざわざお父さん抜きで、僕の写真の登場人物のみで撮ったという(笑)記念写真に写る3人は、みんな笑顔。その写真を見た時、なぜか僕は涙を流してしまいました。

甫嶺駅付近は、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた場所でもあります。40年前のローカル線の日常を写した1枚の写真と、現在の笑顔の記念写真の間には、さまざまなドラマがあったに違いありません。昔たまたま写った人物から連絡をもらっただけという特別に感動的なストーリーではありませんが、写真が持つ不思議な力を強く感じると同時に、今ある穏やかな日常は何げない瞬間の積み重ねなのだなと、強く心を揺さぶられるエピソードになりました。

ミャンマー国鉄(ミャンマー)

 

スイス国鉄(スイス)

 

小湊鐵道(千葉県)

 

撮りたいのは大切で、もろい日常風景

ミャンマー国鉄(ミャンマー)

このゆる鉄ファインダーの連載を開始したのは、2020年5月に発行された2020年初夏号。あれから3年の月日が経ち、世界は大きく変わりました。

世界的な疫病のまんえん、政治家の暗殺、戦争の勃発など、後世の歴史の教科書に掲載されそうなレベルの事象が次々と起こり、この先どんな未来が待っているのか、連載開始当時よりも見えにくくなっていることに驚かされます。

そんななか改めて実感しているのが、日常の大切さです。僕たちが当たり前だと思っている日常がいかに大切で、いかにもろいものであるかを身に染みて感じるようになりました。だからこそ僕は今まで以上に大切に、鉄道が走る日常風景に向けてシャッターを切りたいと強く思っています。

東海道本線(静岡県)

 

少年の夢を後押しした写真の力

三陸鉄道の運転士になったばかりの若者(岩手県)

最終回である今回、僕が選んだ作品は世界中の鉄道で出会った笑顔の写真たちです。

上の写真は、三陸鉄道で運転士になったばかりの若者を撮影したもの。手にしているのは、彼が小学生の頃に僕が撮影したスナップ写真です。その写真を撮影した2012年当時、僕は旅で出会った人の笑顔の写真を撮らせてもらい、その人の夢を聞く『DREAM TRAIN』という作品の撮影に取り組んでいました。そんな時に、三陸鉄道北リアス線沿線で出会ったのが、雪遊びをする小学生。その夢はずばり、「三陸鉄道の運転士になるっ!」でした。それから8年半後、見事に夢をかなえた瞬間の笑顔は少しぎこちないけれど、夢をかなえたという自信に満ちた表情は、今も忘れられません。

そのほかの全ての笑顔にも、僕の知らない素敵なエピソードがあふれているに違いありません。

そう、ここに掲載した全ての写真は、世界中の鉄道を旅して集めた、僕の大切な宝物なのです。

KRLコミューターライン(インドネシア)

 

人を癒やす写真の力を信じたい

ベトナム統一鉄道(ベトナム)

写真にはさまざまな力があります。戦争や被災地の厳しい現実をダイレクトに伝える、写真本来が持つ強い力。魅力的でないものを魅力的に見せる、うそっぱちの力も写真の力です。でも僕が信じたいのは、僕の写真を見た時に思わず笑顔になるような、優しい写真の力です。

ここに写っている笑顔の多くは撮り手である僕に向けられたものですが、僕の写真を通して被写体の人たちの笑顔は写真を見ている人に向けられ、そして写真を見る人もまた、笑顔になるのです。

写真の力で世界を変えたい。なんて大仰なことは言えないけれど、僕の写真を見た人のうちのたった一人でも笑顔になり、心が穏やかになれば、僕はとても幸せなのです。これからも僕は素敵な笑顔を探して、世界中の鉄道の旅を続けていきたいと思います。

3年にわたる連載をご覧いただき、ありがとうございました。

三陸鉄道リアス線(岩手県)

 

 

クリックで写真のみご覧いただけます

 

 

 

〈過去にゆる鉄ファインダーでご紹介した写真をこちらからご覧いただけます〉

 

〈なかい せいや〉
1967年東京生まれ。鉄道の車両だけにこだわらず、鉄道に関わる全てのものを被写体として独自の視点で鉄道を撮影する。広告、雑誌写真の撮影のほか、講演やテレビ出演など幅広く活動している。著書・写真集に『1日1鉄!』『デジタル一眼レフカメラと写真の教科書』など多数。株式会社フォート・ナカイ代表。公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員、日本鉄道写真作家協会(JRPS)会員。

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