京都を知る – SANYO CHEMICAL MAGAZINE /magazine Fri, 11 Oct 2024 05:20:42 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.5 /magazine/wp/wp-content/uploads/2020/09/cropped-sanyo_fav-32x32.png 京都を知る – SANYO CHEMICAL MAGAZINE /magazine 32 32 紅葉色付く貴船神社 /magazine/archives/8515?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e7%25b4%2585%25e8%2591%2589%25e8%2589%25b2%25e4%25bb%2598%25e3%2581%258f%25e8%25b2%25b4%25e8%2588%25b9%25e7%25a5%259e%25e7%25a4%25be /magazine/archives/8515#respond Fri, 11 Oct 2024 05:16:29 +0000 /magazine/?p=8515   [写真家コメント] 貴船神社は水の神様を祀る神社で、秋には参道脇の紅葉が赤く色付きます。灯籠の赤と相まって、美しい秋ならではの色彩を楽しむことができます。この写真は雨上がりの朝に撮ったもので、雨に濡れしっと…

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[写真家コメント]

貴船神社は水の神様を祀る神社で、秋には参道脇の紅葉が赤く色付きます。灯籠の赤と相まって、美しい秋ならではの色彩を楽しむことができます。この写真は雨上がりの朝に撮ったもので、雨に濡れしっとりとした紅葉と濡れた階段が情緒豊かでした。

 

撮影:稲田 大樹〈いなだ だいき〉

京都府宇治市出身の写真家。地元である京都の四季をテーマに写真を撮影し、絵画に近いような色合いに仕上げ、作品とする。「写真を通して、京都の情緒や美しさを感じてほしい」と語る。著書に写真集『極彩色の京都』『京都浪漫紀行』がある。

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食の京都(5)発酵の街、京都 /magazine/archives/8356?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e9%25a3%259f%25e3%2581%25ae%25e4%25ba%25ac%25e9%2583%25bd%25ef%25bc%25885%25ef%25bc%2589%25e7%2599%25ba%25e9%2585%25b5%25e3%2581%25ae%25e8%25a1%2597%25e3%2580%2581%25e4%25ba%25ac%25e9%2583%25bd /magazine/archives/8356#respond Fri, 11 Oct 2024 05:11:31 +0000 /magazine/?p=8356 佐藤 洋一郎 PDFファイル 発酵食品とは微生物による変性を受けた食べもののことで、意外なようだが、多くが人が長く暮らし続けてきた都市とその郊外で発達した。京都はまさにそうした都市で、「1000年の都の歴史」こそが京都を…

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佐藤 洋一郎

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京の3大漬物の一つ、「すぐき」(提供 : 大石 和男氏)

発酵食品とは微生物による変性を受けた食べもののことで、意外なようだが、多くが人が長く暮らし続けてきた都市とその郊外で発達した。京都はまさにそうした都市で、「1000年の都の歴史」こそが京都を発酵の街にしたのである。

発酵をもたらす微生物のなかで双璧をなしているのが麹菌と乳酸菌であろうか。麹菌はもともとカビの仲間で、毒素を持つ通常の菌のなかから無毒の系統を選び出して作られた菌種である。つまり麹菌は「品種改良で無毒化された有益なカビ」ということになる。麹菌の発明者は不明だが、安定的に安全な菌を大量に作る技術は室町時代には完成していた。当時の都は酒宴だ祭事だと何かにつけて大量の酒を消費した。一説にはこの時期、洛中だけで350軒近い酒蔵があったというから驚きである。この酒造りを支えたのが「麹座」をはじめとする職人集団であった。何しろ、目に見えない微生物を扱うのだから相当の知識と経験の集積があったはずで、そこにはさまざまな利権集団がうごめいていたのだろう。当然のごとく利権争いも起きた。北野天満宮や延暦寺を巻き込んだ大騒動の記録も残る。

酒を酢酸菌でさらに発酵させて作られるのが米酢である。市内には多くの酢屋があった。酢は腐敗防止に有効でサバ寿司などにも使われてきたが、興味深いことにその用途の大きな部分が友禅染の色止めだったともいわれる。

酒ばかりではない。大豆の発酵食品もにぎわいを見せていた。寺納豆などと呼ばれる発酵大豆が禅僧によって中国から持ち込まれたといわれる。精進料理には欠かせない食材だったので、京都市内の禅宗寺院では盛んにこれが作られた。今に至るまで伝わるのが、北区の大徳寺納豆や京田辺市の一休寺のそれである。味噌や醤油もまた大豆の発酵食品の一つである。京都の味噌といえばやはり白味噌ということになるだろうが、これは米麹のウェートが高い味噌で、甘く感じられる。

 

精進料理に欠かせない大徳寺納豆も、京都の発酵食材の一つ

京を代表する発酵食品のもう一つが漬物である。漬物は、旬の季節にたくさん採れ、食べきれなかった野菜を保存しておく便法として発達した。発酵の主体は、都心で育ち使われた麹菌と違って、野菜などの葉の表面に自生している植物乳酸菌である。京都の郊外には、都という一大消費地を控え漬物産業が早くから起こった。京都には「3大漬物」といわれる漬物があるが、そのどれもが、郊外の農村地帯の生まれである。3大漬物のうち、「すぐき」と「千枚漬」は冬の漬物で、どちらも専用のカブラの品種が使われている。千枚漬の材料「聖護院カブラ」は鴨川の東、吉田山の南の山麓にある聖護院あたりで生まれた大きな丸いカブラで、これを赤道面に平行に横に薄く切ったものを漬けた。かつては乳酸発酵させた漬物であったが、今では促成化が進み、酢を使った浅漬けの漬物として広く流通している。すぐきは漢字をあてれば酢茎、スグキナというカブラの1品種の根と葉・茎を乳酸発酵させたものだ。スグキナの根は直径5、6センチメートルにも及ぶので、漬物にするには塩と圧力が必要である。高い圧力を得るには極太の長大な天秤棒と数十キログラムもの重石が使われる。てこの原理によって樽当たり300キログラムもの圧がかかるという。

 

すぐきの樽に天秤棒と重石で圧をかける(提供 : 大石 和男氏)

もう一つが、夏の「しば漬け」である。平清盛の娘で平家と命運をともにした安徳天皇の母・建礼門院も好んだといわれる漬物で、ナス、キュウリ、赤シソ、ミョウガなどを塩漬けし乳酸発酵させたものである。あの独特の赤い色は赤シソの色で、産地では赤シソはしば漬けのためだけに栽培されているという。

京都にはほかにもさまざまな漬物がある。有名な漬物屋さんもたくさんあるが、最後に、市場にはめったに出ることのない漬物を一つ紹介して、筆をおくことにしよう。「菜の花漬け」がそれで、市の北東、松ヶ崎あたりでは今も2、3軒の農家が作り続けているようだ。かつてはどの家でも漬けていたものだそうだが、漬けるのをやめる家が後を絶たず、とうとう絶滅危惧の状態になってしまった。野菜など近くのスーパーに行けば簡単に手に入る今の時代はそれでよいかもしれないが、かつては余った野菜は漬物にして常備菜として日々のおかずに使っていた。そんな時代のことを忘れてはならないと思う。

 

佐藤 洋一郎〈さとう よういちろう〉

1952年、和歌山県生まれ。1979年、京都大学大学院農学研究科修士課程修了。国立遺伝学研究所研究員、静岡大学農学部助教授、総合地球環境学研究所副所長、大学共同利用機関法人人間文化研究機構理事、京都府立大学文学部和食文化学科特別専任教授、京都和食文化研究センター副センター長などを経て、ふじのくに地球環境史ミュージアム館長。農学博士。京都市文化功労者。著書に『京都の食文化』『知っておきたい和食の文化』『食べるとはどういうことか』『米の日本史』など。

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祇園祭後祭宵山の夜のあばれ観音 /magazine/archives/7927?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e7%25a5%2587%25e5%259c%2592%25e7%25a5%25ad%25e5%25be%258c%25e7%25a5%25ad%25e5%25ae%25b5%25e5%25b1%25b1%25e3%2581%25ae%25e5%25a4%259c%25e3%2581%25ae%25e3%2581%2582%25e3%2581%25b0%25e3%2582%258c%25e8%25a6%25b3%25e9%259f%25b3 /magazine/archives/7927#respond Thu, 11 Jul 2024 06:54:42 +0000 /magazine/?p=7927   [写真家コメント] 祇園祭後祭宵山の夜に行われる奇祭、あばれ観音。神輿に担いだ観音様を揺さぶりながら町内を3周駆け回ります。写真では鉾(南観音山)を背景に観衆のフラッシュを浴びて光る観音様が撮れました。 &…

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[写真家コメント]

祇園祭後祭宵山の夜に行われる奇祭、あばれ観音。神輿に担いだ観音様を揺さぶりながら町内を3周駆け回ります。写真では鉾(南観音山)を背景に観衆のフラッシュを浴びて光る観音様が撮れました。

 

撮影:稲田 大樹〈いなだ だいき〉

京都府宇治市出身の写真家。地元である京都の四季をテーマに写真を撮影し、絵画に近いような色合いに仕上げ、作品とする。「写真を通して、京都の情緒や美しさを感じてほしい」と語る。著書に写真集『極彩色の京都』『京都浪漫紀行』がある。

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食の京都(4)京の夏の食 /magazine/archives/7999?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e9%25a3%259f%25e3%2581%25ae%25e4%25ba%25ac%25e9%2583%25bd%25ef%25bc%25884%25ef%25bc%2589%25e4%25ba%25ac%25e3%2581%25ae%25e5%25a4%258f%25e3%2581%25ae%25e9%25a3%259f /magazine/archives/7999#respond Thu, 11 Jul 2024 06:35:55 +0000 /magazine/?p=7999 佐藤 洋一郎 PDFファイル   京の夏は暑い。ただし、過去の最高気温は2018年7月19日と1994年8月8日に記録した39.8度で、全国のレコードの上位20位にも入っていない(全国の最高値は41.1度)。そ…

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佐藤 洋一郎

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京の夏は暑い。ただし、過去の最高気温は2018年7月19日と1994年8月8日に記録した39.8度で、全国のレコードの上位20位にも入っていない(全国の最高値は41.1度)。それにもかかわらず京都の夏が暑いことは東京人も知ることである。猛烈な暑さというより、「肌にまとわりつくような暑さ」だろうか。こういう暑さが3週間も4週間も続くと、体力は奪われ食欲もすっかり失われる。建物にも自動車にもエアコンが装備されている今でさえそうなのだから、昔はこの暑さは生死に関わった。

この暑さの故に、京都の夏には独特の料理が発達した。その一つがはも料理である、といわれている。ただし鱧が食べられるのは夏には限らない。鱧の季節は4月末頃に始まり11月中頃まで続く。この間、鱧は3回楽しむことができる。一回目は5月の連休頃に出回る鱧で、走りの鱧という。これはあぶって食べるのがよい。秋の鱧は名残の鱧と呼ばれるもので、脂が乗り、食欲の秋にふさわしい味になる。土瓶蒸しが代表的な料理だろうか。けれど、一番の旬は盛夏の頃、ちょうど祇園祭の頃の鱧で、盛りの鱧といわれる。何といっても鱧はこの季節に食べるのが一番である。さっとゆでて氷水に取り梅肉で食べる。これが鱧のおとしである。梅肉とはすりつぶした梅干しのペーストを酒やみりんなどでのばしたもので、京都の料理屋はもっぱらこれを使う。

なぜ鱧は京都でこうもよく食べられるようになったのか。ものの本には、よく、鱧は生命力が旺盛で生きたまま京都まで運んでこられるのが鱧くらいのものだったからと書かれている。だがこれだけ冷凍技術が発達し、世界中の海で捕れた魚が運ばれてくる時代にも夏の魚は鱧、と京都人をしていわしめるのは、やはり鱧がうまい魚であるからにほかならない。

盛りの鱧のもう一つの食べ方が鱧の棒寿司ではなかろうか。一匹の鱧を丁寧に素焼きし、甘辛のたれにさっとくぐらせ、皮目を下にして酢飯に載せて布巾で固く巻く。実山椒みざんしょうを散らすこともある。これを竹の皮でしっかりと巻いて届け物にする。料理屋から鱧寿司が届くようになったら常連として認められたものだと聞いたことがあるが、なるほど、この鱧の棒寿司は夏の一級の贈り物のように思う。

上:鴨川の床、下:貴船の川床

料理人にとって、鱧料理は特別の意味を持っている。席数の限られたカウンターの前で、主人が鱧の骨切りを始める。鱧は身に無数の細い小骨を持つ。あまりにその数が多すぎて骨抜きなどで取り切れるものではない。それで、アナゴのように開いて背骨を取り去った後、その無数の小骨を専用の庖丁で皮一枚を残して断ち切るのだ。これが骨切り。シャキッ、シャキッとリズミカルな音がすると、カウンターに座った客たちも箸を休めてその作業に見入る。「一寸幅に二五本」ともいわれるその作業で、骨片が舌に触るようなことは間違ってもあり得ない。骨切りは料理人たちがその技を客に披露する見せ場なのだ。

夏の京都で話題になるものがもう一つある。それが「納涼ゆか」である。二条通と五条通の間の鴨川西岸に立ち並ぶ飲食店が、5月から9月までの間、川面に張り出すようにオープンテラス風の席を設けるのだ。川を渡る風が心地よく、また西側の母屋が午後の日差しを遮ってくれる。だから西側なのだ。川床は江戸時代初期の絵図などにも登場するから、その歴史は相当に古い。以前は京料理の店ばかりだったが、最近では中華、フレンチ、タイ料理などというのも登場し、国際色豊かになった。

鴨川の支流の一つ、貴船きぶね川の上流にある貴船という集落にも、納涼床と似た仕掛けがある。ここでは床は「ゆか」とは呼ばず「川床かわどこ」と呼ぶ。川幅も狭く清流の上に桟敷を設ける店が何軒もあるが、市内よりははるかに涼しく、涼を取るにはもってこいの場所である。

京都人の夏の食は、「鱧しかなかった」「ひたすら暑さを耐え忍ぶ」といった消極的なものばかりではなかった。その暑さを逆手に取る優れた知恵と技の結晶でもある。そしてその「締め」がお盆である。一家そろって精進料理を食べ、ハイライト「五山の送り火」(8月16日)で祖先の霊をあの世に送り返すと、長かった夏もようやく終わりを告げるのである。

 

佐藤 洋一郎〈さとう よういちろう〉

1952年、和歌山県生まれ。1979年、京都大学大学院農学研究科修士課程修了。国立遺伝学研究所研究員、静岡大学農学部助教授、総合地球環境学研究所副所長、大学共同利用機関法人人間文化研究機構理事などを経て、京都府立大学文学部和食文化学科特別専任教授、京都和食文化研究センター副センター長、ふじのくに地球環境史ミュージアム館長。農学博士。京都市文化功労者。著書に『京都の食文化』『知っておきたい和食の文化』『食べるとはどういうことか』『米の日本史』など。

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蹴上インクライン /magazine/archives/7909?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e8%25b9%25b4%25e4%25b8%258a%25e3%2582%25a4%25e3%2583%25b3%25e3%2582%25af%25e3%2583%25a9%25e3%2582%25a4%25e3%2583%25b3 /magazine/archives/7909#respond Thu, 18 Apr 2024 04:23:18 +0000 /magazine/?p=7909   [写真家コメント] この桜並木は、人気のない真夜中の2時頃に撮影しました。道路沿いの街灯の灯りが、降っていた霧雨に反射して、幻想的なふんわりとした光になってきれいでした。   撮影:稲田 大樹〈い…

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[写真家コメント]
この桜並木は、人気のない真夜中の2時頃に撮影しました。道路沿いの街灯の灯りが、降っていた霧雨に反射して、幻想的なふんわりとした光になってきれいでした。

 

撮影:稲田 大樹〈いなだ だいき〉

京都府宇治市出身の写真家。地元である京都の四季をテーマに写真を撮影し、絵画に近いような色合いに仕上げ、作品とする。「写真を通して、京都の情緒や美しさを感じてほしい」と語る。著書に写真集『極彩色の京都』『京都浪漫紀行』がある。

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食の京都(3)京都のパンとコーヒー /magazine/archives/7665?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e9%25a3%259f%25e3%2581%25ae%25e4%25ba%25ac%25e9%2583%25bd%25ef%25bc%25883%25ef%25bc%2589%25e4%25ba%25ac%25e9%2583%25bd%25e3%2581%25ae%25e3%2583%2591%25e3%2583%25b3%25e3%2581%25a8%25e3%2582%25b3%25e3%2583%25bc%25e3%2583%2592%25e3%2583%25bc /magazine/archives/7665#respond Thu, 11 Apr 2024 06:02:33 +0000 /magazine/?p=7665 佐藤 洋一郎 PDFファイル 京都といえば和食。和食といえばごはん。多くの人がそう考えるようだが、ここにある面白い統計がある。京都市民一人当たりの年間の米消費量(58.3キログラム)は全国平均の60.8キログラムにも及ば…

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佐藤 洋一郎

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京都といえば和食。和食といえばごはん。多くの人がそう考えるようだが、ここにある面白い統計がある。京都市民一人当たりの年間の米消費量(58.3キログラム)は全国平均の60.8キログラムにも及ばない、というのである。何を食べているのだろうかと調べてみたら、なんとパン消費量(53.5キログラム)が全国平均の39.2キログラムをはるかに凌駕りょうがしているのだ(数字はいずれも2021年)。しかも、米の消費量とパンの消費量がほとんど変わらないではないか。京都人はよほどパン好きらしい。確かに市内を歩いてみると、パン屋さんが目立つ。それも100年の時を刻む老舗からつい最近開店したとおぼしきものまで、実にいろいろである。面白いと思って、昨年卒業した学生と一緒に調べてみた。

製パン所の老舗の一つが西陣の真ん中にある。西陣といえば職人の街である。西陣織などの貴重な工芸品は、だいたいがこの辺りで作られてきた。家族経営中心の小さな工房からは、機織りの音が鳴り響き、街全体が活気づいていたという。寸暇を惜しんで作業をし、食事はといえば手の空いた職人から順に適当に何かをかき込んでおしまい。職人たちはそんな日々を送っていた。当然、一家そろってゆっくり食事、などという暇はない。そこで登場したのが、片手でつまんで食べられる「おかずパン」だったということらしい。菓子パンもまた、そうした文脈の中で発明されたのだった。

ところでパンはパンでも、おかずパンや菓子パンとは別に食パンというジャンルがある。10年ほど前から、各地に食パンブームが巻き起こった。それも、価格が通常の食パンの2倍はする「高級食パン」のブームである。このブームは数年を経ずしてだいぶ下火になったように感じるが、京都でも高級食パンのブームは長続きしなかった。驚きだったのは、京都のパン業界ではこのブームは長続きしないと考えていた人が複数いたことである。市内のある老舗喫茶店の営業部長氏は、少なくともサンドイッチ用という点からは、高級食パンは使えないと言う。価格もそうだが、何より「サンドイッチはパンと具材のハーモニーが売りなのに、あんな自己主張の強いパンではハムや卵焼きといった具材を生かせない」と言うのだ。南区のある大手パン製造会社の社長さんも「おいしいパンは飽きがくる。うちのは特別うまくないパンだから、おかずと一緒にずっと食べてもらえる」と言う。

京都のサンドイッチといえば「卵サンド」。元祖は祇園の喫茶店。軽くトーストした薄切りの食パンにバターを薄く塗り、だし巻き卵を乗せたものだった。これが芸舞妓たちに支持され、数十年の歴史を刻んでいる。その後も各地で類似品が登場して、あっという間に京の名産品になった。共通点は、パンも、バターも、だし巻き卵も自己主張しないこと。あくまでも三者のハーモニーが売りなのだ。もう一つの名物サンドがフルーツサンド。これも数十年の歴史を刻む名品で、今では伝統食材を売る錦市場にもその店が出ている。

そして、パンとくればコーヒーだ。京都人は知る人ぞ知るコーヒー好き。元は、店の旦那たちが商談にコーヒーを使い始めたものだったともいう。映画産業がとがった喫茶店を育てたとも。そういえば鞍馬口近くの喫茶店は、往年の名優のお気に入りだったという。京都大学北門近くのある喫茶店は創業90年の老舗だが、1杯のコーヒーで何時間も本を読む先生たちもいたようだ。その代わり、大テーブルでの相席は当たり前、予約も不可である。私も、徹夜明けの卒業試験の当日、眠気覚ましに1杯のコーヒーを頼んだのを覚えている。

京都らしい、落ち着いた雰囲気の喫茶店

京都のコーヒー好きのなかには、好きが高じて自分で焙煎ばいせんまでする消費者もいるようだ。あるいは、自分好みに焙煎した豆を注文するなじみ客に対応する店もある。ここでも生産者と消費者の持ちつ持たれつの、いかにも京都らしい関係が生き残っている。

 

佐藤 洋一郎〈さとう よういちろう〉

1952年、和歌山県生まれ。1979年、京都大学大学院農学研究科修士課程修了。国立遺伝学研究所研究員、静岡大学農学部助教授、総合地球環境学研究所副所長、大学共同利用機関法人人間文化研究機構理事などを経て、京都府立大学文学部和食文化学科特別専任教授、京都和食文化研究センター副センター長、ふじのくに地球環境史ミュージアム館長。農学博士。京都市文化功労者。著書に『京都の食文化』『知っておきたい和食の文化』『食べるとはどういうことか』『米の日本史』など。

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食の京都(2)普段のおかず「おばんざい」 /magazine/archives/7472?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e9%25a3%259f%25e3%2581%25ae%25e4%25ba%25ac%25e9%2583%25bd%25ef%25bc%25882%25ef%25bc%2589%25e6%2599%25ae%25e6%25ae%25b5%25e3%2581%25ae%25e3%2581%258a%25e3%2581%258b%25e3%2581%259a%25e3%2580%258c%25e3%2581%258a%25e3%2581%25b0%25e3%2582%2593%25e3%2581%2596%25e3%2581%2584%25e3%2580%258d /magazine/archives/7472#respond Fri, 19 Jan 2024 01:53:48 +0000 /magazine/?p=7472 佐藤 洋一郎 PDFファイル     時たま京都に戻って食事をするのだが、やはりよその街とは何かが違う。大枚をはたいて食事するわけではない。もともとは常備菜であるおばんざいを出す店にも名店がある。 &…

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佐藤 洋一郎

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京都で親しまれる普段使いのおかず、「おばんざい」

 

時たま京都に戻って食事をするのだが、やはりよその街とは何かが違う。大枚をはたいて食事するわけではない。もともとは常備菜であるおばんざいを出す店にも名店がある。

よその街とは何かが違う京都

 

そもそも「おばんざい」というその名前からしていかにも京都らしい。「おばんざい」の語源には諸説あるようだが、一番気に入っているのは、「ばん」は番、つまり普段使いのことで「ざい」は菜、つまりおかずのことだという説明だ。これによると、おばんざいとは普段使いのおかずのことで「ケ」の食をいう言葉、ということになる。

私がよく通う店は「一之舟入」のすぐそばにある。舟入とは鴨川に沿って掘られた、水路につくられた船着き場で、北から一、二、三と番号が振られている。北端の舟入である一之舟入は、京都式の住所表示によれば「押小路木屋町西入」ということになる。店はカウンター割烹の形だが、目の前にはその日のおばんざいが数品並んでいる。普段使いということで通年並んでいる品もあるが、季節ならではの一品が並ぶこともある。春ならばタケノコとワカメの炊いたん(炊いたもの)、夏ならば琵琶湖産のアユの甘露煮という具合である。一通りお任せのメニューが出たところで、さあ、次は目の前の「おばんざい」からお好きなものをどうぞ、という趣向である。

こちらのおばんざいは、どちらかというと上等の部類に入る。普通のおばんざいはもっと質素なものも多い。「なっぱとおあげの炊いたん」「万願寺甘とうとじゃこの炊いたん」など。多くは魚菜の組み合わせだが、なかには「タコの柔らか煮」「ナスの煮浸し」など単品のものもある。どれも簡単に作れて「作り置き」ができるもの。冷蔵庫などなかった時代の、豊かな食材には恵まれなかった京の庶民の知恵と工夫が凝集されている。

なじみの店で、京都ならではのカウンター割烹の空気感を味わう

 

カウンター割烹とは料理人が客の前で料理をして出すスタイルのことで、これを始めたのは大阪の料理屋だそうだ。それが京都に持ち込まれたのは1927年のことというから、100年の歴史である。舌の肥えた常連たちが分野を超えて知り合い、そして語り合い、情報を交換する場になった。異分野交流は、このようにして始まった。その常連客たちの舌が料理人の腕を鍛えたともいえるだろう。この際、京都の街が大きすぎないところが良かった。大体のところなら自転車で行けるし、帰りは酔っ払ってタクシーに乗ってもそれほど大した金額にはならない。そして料理人のほうはといえば「目の前の客はやや甘めの味を好むが、今日は酒を飲んできているらしいので量は抑えておこう」といったさじ加減ができる。これがカウンター割烹の強みである。

だから、本当に京の料理を楽しもうと思ったら、やはりなじみの店をつくるのが一番だ。この際「星」の有無は「足の裏に付いた米粒」みたいなもの。その心は「取らなければ気になるかもしれないが、取ったからどうというものでもない」。よく、京都の店は敷居が高いといわれる。「一見いちげんさんお断わり、なんて言われそう」。そういう声も聞こえてくる。でもそれは何も意地悪で言っているのではない。「初めてお越しになるあなた様の好みや体調がわからないので、十分なもてなしができません」。だから初めてのお客はお断りする、というのが料理屋の気質なのである。

こうした、いわば双方向の情報のやり取りは、野菜農家と料理屋の間にもある。案外、そのあたりの濃密な人間関係が、京の食文化を支えているのかもしれないと思ったりもするのである。

 

佐藤 洋一郎〈さとう よういちろう〉

1952年、和歌山県生まれ。1979年、京都大学大学院農学研究科修士課程修了。国立遺伝学研究所研究員、静岡大学農学部助教授、総合地球環境学研究所副所長、大学共同利用機関法人人間文化研究機構理事などを経て、京都府立大学文学部和食文化学科特別専任教授、京都和食文化研究センター副センター長、ふじのくに地球環境史ミュージアム館長。農学博士。著書に『京都の食文化』『知っておきたい和食の文化』『食べるとはどういうことか』『米の日本史』など。

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食の京都(1)京料理の華、「八寸」 /magazine/archives/7351?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e9%25a3%259f%25e3%2581%25ae%25e4%25ba%25ac%25e9%2583%25bd%25ef%25bc%25881%25ef%25bc%2589%25e4%25ba%25ac%25e6%2596%2599%25e7%2590%2586%25e3%2581%25ae%25e8%258f%25af%25e3%2580%2581%25e3%2580%258c%25e5%2585%25ab%25e5%25af%25b8%25e3%2580%258d /magazine/archives/7351#respond Tue, 14 Nov 2023 07:24:01 +0000 /magazine/?p=7351 佐藤 洋一郎 PDFファイル     京料理屋を訪ねてみよう。玄関で履き物を脱ぐ。ちょっとした緊張を味わう心おどる瞬間だ。仲居さんが座敷に案内してくれる。飲み物の注文などを済ませてしばらくすると、いよ…

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佐藤 洋一郎

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何種類かの料理を彩り良く並べた「八寸」(筆者撮影)

 

京料理屋を訪ねてみよう。玄関で履き物を脱ぐ。ちょっとした緊張を味わう心おどる瞬間だ。仲居さんが座敷に案内してくれる。飲み物の注文などを済ませてしばらくすると、いよいよ料理が来る。まずは先付。これは酒のさかな。次いで吸い物。料理人の腕前が発揮される一品だ。店の神髄がここに表れるともいえる。料理の順番は店によって少しずつ違うけれど、「八寸」が出ることもある。この「八寸」こそが、京料理の華だと私は思っている。

8寸(約24センチメートル)角の折敷おしきに、何種類かの料理を彩り良く並べたものが語源だそうである。旬の一品を使い、五色をまんべんなく配し、そして猪口ちょこなどを使って立体的に山海の料理をあしらう。生け花と相通じるところがあるのではなかろうか。皿というキャンバスに描かれたアート、だろうか。

その後も、向付むこうづけ、焼き物、煮物などが出てくる。コース料理の楽しみの一つは器にある。素材は木、陶器、金属器、ガラス器などいろいろ。色、形、重さ、そして質感もいろいろだ。どの器を使えば、それぞれの料理に合うかは、まさに料理人のセンスによる。料理人のアートといってよい。料理人たちは、料理の修業の傍らお茶を習い、華道を修め、習字の教室に通う。彼らはこうして美的センスを磨いているのである。

料理は芸術ではあるが、完成した次の瞬間には誰かの口に入り姿を消してしまう。運慶やミケランジェロの作品が何百年もの間、形を変えることなく人々の心を捉え続けているのとは全く違っている。今日の一品と昨日の一品とは、似て非なるもの。それでも料理人たちは、今日のものが昨日のものと同じものになるように、とことんこだわるのである。料理が「無形文化遺産」といわれるゆえんである。

一品が終わって次の料理が出てくるまでの間が、また大切である。短すぎると、前の料理の余韻を感じるいとまがない。かといって長すぎるとが持たない。仲居さんと料理長のあうんの呼吸で、程良い間隔で次の料理が出てくる。このように考えると、料理長は何人もの料理人や仲居さんを指示しながら、何種類もの料理を作り、それに合わせる器を吟味し、そして出すタイミングを計っている。オーケストラに例えれば、指揮者の役割を担っているのだ。

 

 

京料理といえば、数々の野菜、いわゆる京野菜を使いこなす料理である。京都は盆地に立地しているために、海の魚とは縁遠かった。また禅寺が多く、早くから精進料理が発達していた。こうしたことから、京都には野菜中心の優れた料理が発達した。その伝統は今にも通じ、料理屋には、わがままが言える野菜農家が付いている。野菜農家にもいろいろいて、タケノコだけに特化した農家もあれば、100を超える野菜を少量ずつ作る農家もある。「来週月曜、大きめの聖護院カブを持って来て」、そう注文が入れば、週末のうちに適度の肥料をやり、味をのせる。対面型の付き合いでなければ達成できない上質の付き合いが、このように続けられてきたのもまた、京料理の特質の一つといえるだろう。京料理は一種の総合芸術であり、料理人はその総合プロデューサーなのである。

料理屋と深い付き合いのある野菜農家が京料理を支えている

 

佐藤 洋一郎〈さとう よういちろう〉

1952年、和歌山県生まれ。1979年、京都大学大学院農学研究科修士課程修了。国立遺伝学研究所研究員、静岡大学農学部助教授、総合地球環境学研究所副所長、大学共同利用機関法人人間文化研究機構理事などを経て、京都府立大学文学部和食文化学科特別専任教授、京都和食文化研究センター副センター長、ふじのくに地球環境史ミュージアム館長。農学博士。著書に『京都の食文化』『知っておきたい和食の文化』『食べるとはどういうことか』『米の日本史』など。

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私の京都(6)鴨川デルタ /magazine/archives/7213?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e7%25a7%2581%25e3%2581%25ae%25e4%25ba%25ac%25e9%2583%25bd%25ef%25bc%25886%25ef%25bc%2589%25e9%25b4%25a8%25e5%25b7%259d%25e3%2583%2587%25e3%2583%25ab%25e3%2582%25bf /magazine/archives/7213#respond Thu, 14 Sep 2023 01:13:14 +0000 /magazine/?p=7213 永田 和宏 PDFファイル 京都を評して「山紫水明」と言うのは定番になっているが、〈山紫〉は比叡山、大文字山を代表とする東山連峰、そして〈水明〉は言うまでもなく鴨川以外ではない。京都に鴨川がなければ、どれほど味気ない町に…

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永田 和宏

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高野川(右)と賀茂川が出合うところにできた、通称「鴨川デルタ」
写真=大山 雄大

京都を評して「山紫水明」と言うのは定番になっているが、〈山紫〉は比叡山、大文字山を代表とする東山連峰、そして〈水明〉は言うまでもなく鴨川以外ではない。京都に鴨川がなければ、どれほど味気ない町になっていただろう。

鞍馬や八瀬へ延びている叡山電車(通称、叡電)の始発駅は出町柳と呼ばれる。この出町柳は、賀茂川と高野川が出合って鴨川と名を変える場所でもある。

 

輪郭がまた痩せていた 水匂う出町柳に君が立ちいる

永田紅『日輪』2000年発行

 

出町柳はまた、待ち合わせの場所でもある。出会う前のわずかな時間に、対岸に立つ「君」を見ていたのだろうか。見られていることに気付かない恋人を遠く見つつ「輪郭がまた痩せていた」ことに、はっと気付く。はかなげに立つ君の痩せ方を、口に出せないままに心配している作者の心の揺らぎが感じられる一首である。何より「水匂う」という一句が、まるで枕詞のように響いているのが快い。

 

ふたすじデルタを成して合ふところ「出町柳」と恋人は呼ぶ

栗木京子「二十歳はたちの譜」

 

この歌には面白いエピソードがある。私と河野裕子が新聞に連載した「京都うた紀行」(加筆修正し2016年に書籍化)で、私はこの一首を取り上げ「どこで読んだ歌だったのだろう」と言い「誰の歌であったのかも、ついに思い出せない。しかし、歌はこんな覚え方をされるのが幸せなのだとも言えよう」と書いている。記憶はしているが、誰の歌かわからないままに引用したのであった。

ところが、その数年後、思いがけないところで作者を知ることになった。青磁社から2014年に発行されている『シリーズ牧水賞の歌人たちvol.9 栗木京子』の中でこの歌に出会ったのだ。この歌は栗木京子のデビュー作、角川短歌賞次席に入選した「二十歳の譜」という1975年に作られた一連の中の一首だったのだが、歌集にまとめる時にそこに収録しなかったのだと言う。「作者がわからないけれど」と私が新聞の連載で取り上げた自作を見つけ「なんと三十五年ぶりの自作との遭遇」であったと驚いていた。そして「ただ一度、総合誌に載っただけの歌をよく覚えていてくれたなあ、と思う。ありがたいことである」とも書いていたのである。

これは私には大いなる驚きであり、かつうれしい作者との再会であった。たかが歌一首であるが、人の記憶にこのように残っていく歌もあるのである。歌の運命ということを思う。

永田紅、栗木京子の二首にみられるように、出町柳、そして高野川と賀茂川の出合うところにできた通称「鴨川デルタ」は、京都大学、同志社大学、そしてかつての立命館大学という京都の三つの大学からちょうど等距離に位置することもあって、大学生にとっては格好の出会いの場でもあった。いつ来ても若者たちであふれている。川には跳び石としての〈亀石〉が置かれ、その跳び石を若者たちが踏み渡っていく。京都で最も若さが息づく場であるのかもしれない。

いつ来ても若さのおういつする、生き生きとした生気の感じられる場であるが、自身の身体的、精神的状態によっては、そんな若さに圧倒される場面もあるだろう。

私の妻、歌人河野裕子は、2000年のある秋の日、京大病院で乳がんの診断を受けた。病院の前で私と別れた河野は一人で車を運転して家まで帰ったのであるが、ちょうど出町柳の信号でデルタに集う若者たちの若さを、涙ぐましい思いで眺めることになった。その時の自らの思いを次のように述べている。

 

十年まえの秋の晴れた日だった。乳癌という思いがけない病名を知らされたあの日の悲しみをわたしは生涯忘れることはあるまい。鴨川のきらめく流れを、あんなにも切なく美しく見たことは、あの時もそれ以後もない。

人には、生涯に一度しか見えない美しく悲しい景色というものがあるとすれば、あの秋の日の澄明な鴨川のきらめきが、わたしにとってはそうだった。この世は、なぜこんなにも美しくなつかしいのだろう。泣きながらわたしは生きようと思った。

河野裕子『京都うた紀行』

それは、鴨川デルタでまぶしくも水に戯れる若者たちを見ての思いでもあっただろう。それ以来、私は鴨川デルタで若者たちを見るたびに、その時の河野の悲しみを思い、一人で帰らせるのではなかったという後悔をかみしめるのである。

 

永田 和宏〈ながた かずひろ〉

1947年滋賀県生まれ。歌人・細胞生物学者。京都大学理学部物理学科卒業。京大再生医科学研究所教授などを経て、2020年よりJT生命誌研究館館長。日本細胞生物学会元会長、京大名誉教授、京都産業大名誉教授。歌人として宮中歌会始詠進歌選者、朝日歌壇選者を務める。「塔」短歌会前主宰。読売文学賞、迢空賞など受賞多数。2009年、紫綬褒章受章。歌人・河野裕子と1972年に結婚し、2010年に亡くなるまで38年間連れ添った。著書に『知の体力』『置行堀』『歌に私は泣くだらう―妻・河野裕子 闘病の十年』など多数。

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私の京都(5)荒神橋 /magazine/archives/6989?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e7%25a7%2581%25e3%2581%25ae%25e4%25ba%25ac%25e9%2583%25bd%25ef%25bc%25885%25ef%25bc%2589%25e8%258d%2592%25e7%25a5%259e%25e6%25a9%258b /magazine/archives/6989#respond Wed, 12 Jul 2023 06:48:30 +0000 /magazine/?p=6989 永田 和宏 PDFファイル 私たちの歌誌『塔』の仲間であった川俣水雪が亡くなったのは、2021年のことであった。大腸がんであったと聞いている。彼とは一度だけ、一緒に飲んだことがあった。歌集が一冊だけ残された。 &nbsp…

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永田 和宏

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丸太町橋から望む荒神橋。右手の山は比叡山。その手前に見える白い建屋が京都大学医生物学研究所

私たちの歌誌『塔』の仲間であった川俣水雪が亡くなったのは、2021年のことであった。大腸がんであったと聞いている。彼とは一度だけ、一緒に飲んだことがあった。歌集が一冊だけ残された。

 

喫茶店シアンクレール今はなく荒神橋に佇むばかり

川俣 水雪

 

この一首を冒頭に置く歌集『シアンクレール今はなく』(2019年発行)がそれである。

京都には、学生に人気のある喫茶店がいくつかあった。川俣の詠う「シアンクレール」は、荒神橋のたもとにあるジャズ喫茶だった。京都ではよく知られていたが、閉店してしまった。

『二十歳の原点』の高野悦子がよく通った店としても知られているが、フランス語の意味は「明るい田舎」なのだそうだ。開店当時のかいわいはまだ田舎の雰囲気だったというが、我々は「思案(に)暮れる」と覚えていた。ジャズというものに縁のなかった私は、数え切れないくらいその前を通りながら、一度も入ったことがない。

荒神橋は鴨川に架かる橋であり、出町柳の賀茂大橋と、丸太町橋の間にある。京都大学の近衛通から、立命館大学の広小路キャンパスをつなぐ橋でもあり、このことが1953年のいわゆる「荒神橋事件」の発端ともなった。立命館大学に戦没学生記念像「わだつみ像」が誘致されることになり、その歓迎大会に参加しようと、京大から学生100名余りがデモ隊列を組んで荒神橋を渡ろうとしたところ、京都市警が不法デモとしてこれを阻止し、荒神橋上でもみ合いになった。その際、当時木造だった橋の欄干が壊れ、十数名の学生が転落し、重軽症を負ったのである。

そんな歴史的な背景とは別に、荒神橋はいつ渡っても気持ちの良い橋だった。私のいた京都大学胸部疾患研究所は、後に再生医科学研究所(現・京都大学医生物学研究所)に改組されたが、私の研究室はずっと同じで、川端通と春日北通に面する京大キャンパスの南西角にあった。昼メシなどを食いに、よくこの橋を渡ったものである。

 

とりとめもなき感情の午後の襞荒神橋を絵日傘ゆけり

永田和宏『やぐるま』

 

荒神橋より北を見るとき鴨川の股のあたりを冬時雨過ぐ

永田和宏『饗庭』

 

午後の明るい日差しのなかを、絵日傘を差した和服の女性が歩いていたりすると、現実感の希薄な、どこかめまいがするような不思議な感覚を持ったこともあった。よく荒神橋から北の方角を眺めたが、出町柳で賀茂川と高野川が出会う、通称鴨川デルタの辺りを冬の時雨が通り過ぎるのが見えたりもした。四季折々の荒神橋を楽しんでいたように思う。

前衛短歌の旗手として活躍された岡井隆さんの提案で、私と岡井さん、それに私の妻の河野裕子を中心として、私たちの『塔』と岡井さんの『未来』の若手歌人たちを集めて「荒神橋歌会」を立ち上げたのは、1993年であった。会場を京大会館としたことから、近くの荒神橋を歌会の名としたのである。

後にこの歌会から、吉川宏志、大辻隆弘といった有力な若手歌人が出てくることになったが、毎月一度開かれる歌会では、無記名で歌を出し、投票をして批評をした。真剣勝負の場であり、岡井隆さんといえども酷評の対象になる。その緊張感が快く、私たちはもちろんのこと、私より20歳ほど年上の岡井さんが一番楽しんでおられただろうか。

 

おのずから顔近づけて言う声のただに明るく樫の樹は立つ

永田和宏『風位』

 

数年後、岡井さんが京都の大学の非常勤講師を終えて東京へ帰ることになった際、送別会とした最後の荒神橋歌会に出した私の歌である。岡井さんを送るということで、実はこの一首にはちょっとしたトリックが隠されている。各句の頭を抜き出してみれば「おかいたかし」となる。同じ趣向で岡井隆を折句にした歌を5首作ったのだが、岡井さんをねぎらうという思いであっただろうか。種明かしをしたら、岡井さんがとても喜んでおられたのを覚えている。歌ではこんな遊びもできるのである。

こんなことも含め、荒神橋は私の人生のうち30年ほどをその近くに過ごし、折に触れて橋からの景を眺めた思い出深い場所である。

 

 

 

永田 和宏〈ながた かずひろ〉

1947年滋賀県生まれ。歌人・細胞生物学者。京都大学理学部物理学科卒業。京大再生医科学研究所教授などを経て、2020年よりJT生命誌研究館館長。日本細胞生物学会元会長、京大名誉教授、京都産業大名誉教授。歌人として宮中歌会始詠進歌選者、朝日歌壇選者を務める。「塔」短歌会前主宰。読売文学賞、迢空賞など受賞多数。2009年、紫綬褒章受章。歌人・河野裕子と1972年に結婚し、2010年に亡くなるまで38年間連れ添った。著書に『知の体力』『置行堀』『歌に私は泣くだらう―妻・河野裕子 闘病の十年』など多数。

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