Sanyo Interview – SANYO CHEMICAL MAGAZINE /magazine Fri, 11 Oct 2024 05:43:58 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.5 /magazine/wp/wp-content/uploads/2020/09/cropped-sanyo_fav-32x32.png Sanyo Interview – SANYO CHEMICAL MAGAZINE /magazine 32 32 エッセンシャルワーカーの処遇を改善し、日本の社会経済の基盤強化を /magazine/archives/8483?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2582%25a8%25e3%2583%2583%25e3%2582%25bb%25e3%2583%25b3%25e3%2582%25b7%25e3%2583%25a3%25e3%2583%25ab%25e3%2583%25af%25e3%2583%25bc%25e3%2582%25ab%25e3%2583%25bc%25e3%2581%25ae%25e5%2587%25a6%25e9%2581%2587%25e3%2582%2592%25e6%2594%25b9%25e5%2596%2584%25e3%2581%2597%25e3%2580%2581%25e6%2597%25a5%25e6%259c%25ac%25e3%2581%25ae /magazine/archives/8483#respond Fri, 11 Oct 2024 05:10:12 +0000 /magazine/?p=8483 写真=本間伸彦 コロナ禍で「日常生活になくてはならない仕事をする人」として注目を集めたエッセンシャルワーカー。この仕事の担い手のおかげで、基礎的な社会機能を維持できていることに感謝の気持ちを新たにした方も多いのではないで…

The post エッセンシャルワーカーの処遇を改善し、日本の社会経済の基盤強化を first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>
経済学者
田中 洋子〈たなか ようこ〉
Yoko Tanaka

1958年東京都出身。東京大学大学院経済学研究科修了。博士(経済学)。東京大学経済学部助手、筑波大学人文社会科学研究科准教授、人文社会系教授を経て、2024年より筑波大学名誉教授、ベルリン自由大学フリードリヒ・マイネッケ研究所研究員および法政大学大原社会問題研究所研究員。長年ドイツの歴史分析と現状調査に携わり、毎年2カ月はドイツ、および世界各地に滞在し、グローバル化の実態を調査している。主な著書に『ドイツ企業社会の形成と変容 クルップ社における労働・生活・統治』『エッセンシャルワーカー 社会に不可欠な仕事なのに、なぜ安く使われるのか』(編著)など。

写真=本間伸彦

コロナ禍で「日常生活になくてはならない仕事をする人」として注目を集めたエッセンシャルワーカー。この仕事の担い手のおかげで、基礎的な社会機能を維持できていることに感謝の気持ちを新たにした方も多いのではないでしょうか。長年ドイツの労働や生活の実態を研究対象としてきた経済学者の田中洋子さんは、日本のエッセンシャルワーカーの処遇の悪化を、日本の世界的な地位低下をもたらす要因の一つとして警鐘を鳴らしています。ドイツと日本で目の当たりにした働き方の違いと、日本社会の未来を損ないかねない危機的な現状を回避するための方策についてお聞きしました。

 

日本と大きく異なるドイツの働き方

ベルリン社会科学研究所の元所長で、ドイツ近現代史の大家であるユルゲン・コッカ先生と奥様とともに

-- エッセンシャルワーカーという言葉は、コロナ禍で耳にするようになりました。

はい。当時は世界各地でロックダウンが行われ、日本でも緊急事態宣言が発出されて外出自粛などが呼びかけられました。そうしたなかでも、医療、小売、生活サービス、物流・運送、介護・保育などに携わる方々には、働き続けてもらわないと困るという認識が広がったのです。基礎的な社会機能を維持し、日常生活を送るために、必要不可欠な仕事に従事する人たちのことをエッセンシャルワーカーと呼ぶようになりました。このなかには非正規雇用で働く方も多いです。

-- 田中先生はコロナ以前からエッセンシャルワーカーについて研究されていたのですね。

はい。2013年頃に女性の非正規雇用に関心を持つ研究者が集まって国際比較研究をするプロジェクトに参加し、日本とドイツのスーパーマーケットなどを視察したのがきっかけです。その時、ドイツの働き方が、日本とは全く違っているのを目の当たりにして、みんなびっくりしたんですよ。

-- どのように違うんですか。

日本とドイツのスーパーで働く女性パートタイマーの割合はほぼ同じですが、処遇は大きく違います。日本のパートタイマーは非正規で雇用されていて正社員と同じ仕事をしていても給与体系が違うんです。長く働いているベテランでも給与は最低賃金に近く、昇給もたまに時給が10円上がる程度で、年収は200万円前後と、家計の補助にしかなりません。片や、ドイツのパートタイマーは働く時間が短いだけの正社員で、フルタイムの正社員と同じ給与体系が適用されます。ちなみに最低賃金も目下では約2000円と、日本よりも高いです。

さらに、日本では半年や1年の有期契約なので、いつまで同じ職場に勤め続けられるかわからず不安定です。一方でドイツでは理由のない有期契約が禁止されていて、パートタイマーも正社員なので無期雇用です。フルタイムで働く人には短時間勤務に移れる権利があり、企業はこれを拒否できないと法律で定められています。そのため個人や家庭の状況に応じて労働時間を短くしたり、フルタイムに戻ったりできます。

-- 時短の人ばかりだと、人手が足りなくなりませんか。

最初から、人手が足りるように多めに採用しておくんですよ。

-- そのようなことができるんですか。日本とはずいぶん違いますね。

そう感じますよね(笑)。ドイツのパートタイマーは有給休暇や年金などの福利厚生もフルタイムの正社員と全く同じ処遇です。スーパーでは一部の上層幹部だけ特別な契約を結んで転勤しますが、それ以外のポジションでは本人が望まない異動命令もありませんから、生活も安定しているんですよ。

-- スーパーのような小売業以外の職場でも同じように安定して働けるのですか。

そうなんですよ。というのも、ドイツはジョブ型の雇用制度です。あらゆる業界でパートタイムでもフルタイムでも、ジョブ型では同じ仕事をする人は同じ等級・同じ給与水準で働いています。会社の中の各部局の独立性が高く、人事部の権限は強くないので、人事部の命令で転勤させられるということはなく、部局の中でチームリーダーと従業員が話し合いながら自由に働き方を決められます。会社に入ってからもさまざまな教育・研修を受けながら、自分の希望する職種で資格・スキルアップをしていくことができます。日本のハローワークに当たるジョブセンターという機関でも、ジョブに対する資格取得や企業とのマッチングを積極的に支援してくれます。

-- なるほど。ドイツでは、就職活動はどのようにするのでしょうか。

採用は通年で行われていますから、応募者が自分のタイミングで企業ホームページから応募しています。私がインタビューした人のなかには「志望企業の担当者とコーヒーを2回飲んだら、採用が決まった」と言う人もいて、就職活動の負担も日本に比べてずっと少ないです。1年間専門学校に通った、旅をしていたなど、職歴に空白があることも全く問題視されません。

-- 日本では第2新卒という言葉も生まれて、少しずつ変わってきていますが、新卒一括採用がまだまだ主流です。

そうですね。また、残業時間の扱い方も違うんですよ。どの企業にも忙しい時期とそうでない時期がありますよね。ドイツの場合は「労働時間口座」という仕組みをうまく活用しています。従業員が忙しい時期に残業したら、その時間をポイントとして貯めておき、先々休暇を増やしたり、早く帰ったりといろいろな形で使うことができるんです。企業にとっても繁閑期に合わせて人員を調整でき、残業代を払う必要がないので便利ですよ。リーマンショックで2009年に製造業の需要が大幅に減った時やコロナ禍でも、この制度を利用して乗り切ったんです。日本はサービス残業や非正規の存在が、こうした時間調整の制度を妨害しています。

日本は1970年代以降、パートタイマーやアルバイトという、忙しい時だけ安く使って不況時にすぐに切れる、雇い主側に都合の良い働き方を拡大してきました。現在は働く人全体の4割にも及んでいます。日本の学生に話を聞くと、決算を締めたり、英語の会議の議事録をとるという専門的な知識や技能が必要なインターンシップを、アルバイト並みの安い時給で行っている会社もあります。確かにやりがいはあるでしょうが、求められる仕事内容やエネルギーに給与が見合っていません。やりがい搾取になっています。ドイツだったら、こうしたインターンには時給2000円は支払われるのが普通ですよ。学生のアルバイトでもきちんと稼げるので、学業を優先することができています。日本では、家庭からの学費や生活費の援助が全くなくて、アルバイトをしないと就学継続が困難な学生が今や20%以上いるといわれています。授業の隙間にびっちりアルバイトをいれているゼミ生もいて、驚くことがあります。

 

予算や教員が削られる教育の現場

-- 生活費をまかなうために働いている学生も増えているのですね。日本の大学での教員や職員の働き方はいかがでしょうか。

国立大学を例に挙げると、予算がどんどん減らされて、研究や教育に十分な費用や時間が回せない状況です。海外の研究者と会話していると、「なぜ、日本では、いつも『予算がない』という話が出てくるのか」と不思議がられますよ。

人材の面では90年代から大学職員の非正規化が始まり、正規の職員は事務室から一人もいなくなってしまいました。日本では有期雇用で5年働いた人は無期雇用に転換させるという法律があるため、有期で短時間勤務をしていた大学の事務担当者は、5年勤続する直前に契約を打ち切られてしまいます。ベテランの現場の担当者がいなくなってしまうせいで、大学教授が研究ではなく、事務仕事に追われてしまう。博士課程の研究者が特任教員として有期で採用されて膨大な事務仕事を任されることもありますが、彼らが疲弊し、体を壊してしまい、自身の研究ができなくなる例も聞きます。研究者一人ひとりを大切に育てて、その人自身の個性や力を発揮してもらわないといけないのに、目先の人件費を削減するために安い非正規の人材としてつぶしてしまうんです。人にコストをかけない風潮が加速することで、大学の教育や研究がしわ寄せを受けています。社会的に大変大きな損失です。

-- 大学が日本の未来をつくっていく役割を十分に果たせなくなりそうです。小中学校の教員志望者も減っていると聞きます。

はい。義務教育の現場でも国庫負担制度の見直しなどに伴って人件費が削減され、非正規教員が増加し、教員の働き過ぎも常態化しています。地域によっては新学期が始まる直前までクラス担任も決められないほどに、教員不足が進んでいるそうです。そして、このことが、社会に共有されていないことも大きな問題だと感じています。

 

公共性の高い職業やサービスの存続が危ぶまれる

90年代のバブル崩壊以降の日本では、目先の利益にとらわれ、安易な発想で人を安く雇って使いつぶすことが、特に私たちにとって不可欠な公共サービス分野で日常的になってしまっています。これは、日本社会全体を傷つけることにつながっています。働き盛りの世代が不利益を被って、生活保護を必要としたり、早く介護の必要な体になったりすれば、社会全体にとってマイナスでしかありません。

-- この問題の解決に、もっと積極的に取り組む必要があると感じます。

そうなのですが、なかなか進んでいません。例えば介護業界では、働く人が集まらないので介護事業所支援の補助金が給付されていますが、現場で働いている人のもとにまでお金が渡っていません。予算は割かれていても、配分がうまくいっていないのです。そのうえ、2024年4月からは、訪問介護の報酬額が引き下げられたんですよ。訪問介護の利益率は、訪問先への移動時間の相違から、都会では高く、地方では低い傾向にあります。おそらく審議委員の人たちは統計の平均値だけを見て、現場のことを考えずに判断したのでしょう。これにより地方の介護拠点では、倒産が相次いでいます。

また保育現場では、給与改定で、新しく保育士になる人の給与が少し上がる一方で、経験を積んだ保育士の給与が下がるという事象も起きています。

現場の介護士や保育士は、「誰かのために」という思いでこの仕事を選んだ人が多いですから、高齢の利用者さんや子どもたちのためにと考えて報酬が少なくても無理をしてしまう。これも現場の労働者の優しい気持ちに付け込んだ、やりがい搾取といえると思います。

-- 一人ひとりが能力や適性などの個性を生かせる仕事に就き、業務内容に見合った条件で働けることが、労働者にとっても社会にとっても良いはずなのですが。

そのとおりです。かつて長距離トラックドライバーは大変だけれど稼げる仕事で、運転技術や体力に自信がある若者からも人気がありました。しかし、物流業界では、規制緩和が進むなかで景気が低迷し、激しいコスト競争にさらされました。その結果、荷主による運賃の買いたたきや荷役などの付帯サービスの過剰な要求が横行し、長時間労働はそのままに、収入だけが下がっていったのです。昨今、物流の2024年問題といわれ人手不足で注目が集まっていますが、そもそもは、この30年間に、限界的な長時間労働や過積載、収入減と働く条件の悪化という状況が構造的に運送業界で進んだことが問題だといえます。

-- コンビニやスーパー、通販も運送業者の皆さんによって成り立っていますから、他人事ではありません。

 

未来の日本社会を取り戻すために

友人宅で

物流業界では、国土交通省と全日本トラック協会が運賃の適正化を図る動きがあるんですよ。2019年に国土交通省・経済産業省・農林水産省が「ホワイト物流」推進運動を立ち上げ、多くの企業に商慣行や業務プロセスの見直しを求めるようになりました。

-- 今後の行方に注目します。

そうですね。小売業においても、2014年に家具・インテリアのイケア・ジャパンが全てのパートタイマーを短時間正社員にしました。人事部長にお会いして話を聞きましたが、社内の抵抗や反発はほとんどなく、パートタイマーのモチベーションが上がって売り上げも上がり、何のマイナスもなかったそうですよ。唯一、反対があったのが女性パートタイマーの旦那さんからで、奥さんが扶養から外れることや、旦那さんの会社の扶養手当がなくなることを問題視していたそうです。今の40、50代にはまだまだ、「妻は自分の扶養のなかにいるべき」と考える人がいるようです。

-- ただ、扶養手当を廃止する会社が増えてきているんですよね。

ええ。日本でも少し考え方を変えるだけで、低処遇の非正規のパートタイマーを短時間正社員に代えていくことができます。日本では以前から、育児期間中の短時間勤務が広がっているので、これを育児に限らず広げていけば、非正規をなくすことができます。有期契約には理由が必要と法律で定めるだけで、今の有期雇用は7、8割なくなると思います。最近になって日本政府は「人への投資」を主張するようになりました。ただでさえ労働力不足になる日本では、働く人にもっときちんとお金を回していくことが大切です。

日本は、規制緩和政策と不況の長期化が相まって、人件費の削減が進み続けました。そのなかで生活が追い詰められた人たちが、安く低い労働条件でも働かざるをえなくなり、負のマッチングが起きて、処遇悪化が定着しました。しかし、今や彼らはその低い条件に嫌気がさし、そこで働くことを見限りはじめています。

日本を持続可能な社会にしていくためには、コストカットではなくエッセンシャルワーカーの処遇を良くすることが急務です。彼らの仕事のおかげで、私たちは生活できているんです。私たちの社会生活は「お互い様」で成り立っています。このままいくと、あと10年ほどで、現場の仕事の担い手がどんどんいなくなって、日本の今の日常生活は深刻な危機に陥りかねません。エッセンシャルワーカーの処遇を根本的に改善する新しい制度づくりに、日本は本気で取り組まないといけないと思います。

-- エッセンシャルワーカーを取り巻く状況が悪化していることを認識し、現状に対する危機感を社会で広く共有することが大切ですね。私たち個人にできることはないでしょうか。

例えば、選挙のタイミングで候補者がエッセンシャルワーカーの仕事についてどう考えているかに注意を払うなど、もっと関心を持つといいかもしれませんね。

-- 私たち一人ひとりが意識を変えて、社会を変えていく一歩を踏み出す必要がありますね。本日は、ありがとうございました。

 

と   き:2024年6月3日
と こ ろ:西新橋・当社東京支社にて

 

The post エッセンシャルワーカーの処遇を改善し、日本の社会経済の基盤強化を first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>
/magazine/archives/8483/feed 0
医学と科学の二人三脚で、人類を病気から守る /magazine/archives/8045?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e5%258c%25bb%25e5%25ad%25a6%25e3%2581%25a8%25e7%25a7%2591%25e5%25ad%25a6%25e3%2581%25ae%25e4%25ba%258c%25e4%25ba%25ba%25e4%25b8%2589%25e8%2584%259a%25e3%2581%25a7%25e3%2580%2581%25e4%25ba%25ba%25e9%25a1%259e%25e3%2582%2592%25e7%2597%2585%25e6%25b0%2597%25e3%2581%258b%25e3%2582%2589%25e5%25ae%2588%25e3%2582%258b /magazine/archives/8045#respond Thu, 11 Jul 2024 06:28:17 +0000 /magazine/?p=8045 写真=本間伸彦 日本において、がんに次いで死亡率が高いといわれる心疾患。心臓は全身に血液を送り出しており、生命活動にとって最も重要な臓器です。心臓の疾患について、iPS細胞(人工多能性幹細胞)由来の心筋細胞シートを使った…

The post 医学と科学の二人三脚で、人類を病気から守る first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>
心臓外科医
澤 芳樹〈さわ よしき〉
Yoshiki Sawa

1955年大阪府出身。1980年3月大阪大学医学部卒業、同大医学部第一外科入局。1989年フンボルト財団奨学生として、ドイツのMax-Planck研究所心臓生理学部門、心臓外科部門に留学。2006年、大阪大学大学院医学系研究科心臓血管・呼吸器外科教授。2016年日本医師会医学賞、2019年第1回日本オープンイノベーション大賞日本学術会議会長賞受賞。2020年紫綬褒章受章。現在、大阪大学特任教授、大阪警察病院院長。専門領域は、心不全・弁膜症・再生医療・心臓移植など。

写真=本間伸彦

日本において、がんに次いで死亡率が高いといわれる心疾患。心臓は全身に血液を送り出しており、生命活動にとって最も重要な臓器です。心臓の疾患について、iPS細胞(人工多能性幹細胞)由来の心筋細胞シートを使った、画期的な再生治療の開発・普及に取り組むのが澤芳樹さんです。シンプルで低侵襲な治療が可能になる心筋細胞シートはどのようにして生まれたのでしょうか。命を救う医学の進歩に対する思いも伺いました。

 

iPS細胞由来の心筋細胞シートが心臓病患者の生存率を高める

iPS細胞を心筋細胞に変化させて、シート状に加工した心筋シート

-- 長年、心筋再生医療の手術や研究開発に携わってこられたそうですが、iPS細胞由来の心筋細胞シート(以下、心筋シート)とはどのようなものですか。 

心筋シートは京都大学iPS細胞研究所から提供されたiPS細胞を心筋細胞に変化させて、直径約3.5センチメートルのシート状に加工したものです。

手術では心臓に心筋シートを3枚貼るんですが、この3枚の中に細胞が1億個入っています。そもそも人間の体は約60兆個の細胞でできていて、心臓の細胞はそのうち約1000億個。そんなにたくさんの細胞を人間がつくって移植するというのはとうてい無理なんです。そこで、移植した心筋細胞が因子を出し、血管を新しくつくることによって心臓機能が回復するサイトカイン療法が有効だと考え、これを応用しました。iPS細胞から心筋細胞をつくるだけでなく、がんや腫瘍にならないようにする技術も確立し、心臓の機能を回復させる世界初の技術です。心不全の中でも、心筋梗塞が度重なって心機能が半分以下に低下した、虚血性心筋症などに特に有効なんですよ。

-- 心筋シートの移植手術を受けた方には、どのような効果があったのでしょうか。

2020年に大阪大学で行われた治験を皮切りに、重い心不全の患者さんなど8人の治験が終了しました。手術前は日常生活を送ることが精いっぱいで、外を出歩けず、仕事を休んで家で安静にしていなければならないというような方がほとんどでした。しかし術後は皆さん症状が改善して、社会復帰し、仕事を再開された方もいますよ。患者さんが術後1週間くらいで「元気になりました」と言ってくれたことがあって、うれしかったですね。患者さんの5年生存率は70%前後から90%まで上がりました。生命が維持できるかどうかという生命予後を変えることができるんです。

心臓に疾患があって、薬やバイパス手術などを試したけれどダメで、ほかに治療法がないという状態を僕らは「ノーオプション」と呼びます。こうなると、もう安静にしているしかない。心筋シート治療はそのような患者さんでも間に合うんです。

-- 希望に満ちたお話です。ただ、今はまだ誰でも受けられる治療というわけではないのですね。

心筋シートを使った手術が保険診療で受けられるようになれば、医療費に税金が使われるので、患者さんの負担が少なく、広く普及しやすい普遍的な医療といえるようになります。片や、自由診療は患者さんが医療費を全て負担するので、裕福な人しか受けられない医療。みんなが治療を受けられる日本の国民皆保険の制度に認められることは、ハードルは高いですが、世界に広げていくためには必要なことだと考えています。

心筋シートのもう一つのいいところは、低侵襲で患者さんへの負担が少ないことです。手術で胸は切り開くけれど、心臓にメスを入れることはなく、心筋シートを貼るだけ。時間もかからないし、誰でもできるから、医師にとってもリスクが少ない。病気を高い確率で治せる名医を「神の手」ということがありますが、僕は、そんな名医はいないと思っています。誰でもできるようなシンプルで効果の高い手術の仕方を開発して、普遍的な医療を確立したいんです。

 

重症心不全治療に向き合い挑み続ける

iPS細胞の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥さんと

-- 心筋シートの開発にあたっては、多くのご苦労があったのではないでしょうか。

そうですね。2000年頃から、重症心不全の方の太ももの筋肉を少し切り取り、そこから筋芽細胞を取って培養し、筋芽細胞シートをつくって心臓に移植する再生医療に取り組み始めました。動物実験や人体での治験を経て、世界で初めて成功するまでに実に15年以上かかったんですよ。

この筋芽細胞シートの技術をさらに高めたいと考えて、2008年頃から新たにiPS細胞を使った心筋シートの開発を始めたんです。2012年にiPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授との共同研究です。安全性基準を構築し、製品を製造して、安全性を確かめながら商品化していく過程は、僕たちにとって初めてのことだらけ。大学では、製造販売承認を取得できない、研究を通じて蓄積される膨大なノウハウも生かしきれないというアカデミアの壁にもぶつかりました。2017年にクオリプス株式会社を立ち上げ、製品を臨床で使ってみてデータを集め、フィードバックを繰り返してようやく製品化にこぎつけたんです。

-- ノーベル賞受賞前から共同研究が進んでいたんですね。心臓に移植するシートの開発には25年近くも関わっておられるんですね。

はい。これからは、開発の拠点は日本にとどまりません。2023年11月にサンフランシスコで行われたAPECでは、経済産業省がシリコンバレーに設立した、日本のスタートアップを支援する「Japan Innovation Campus」の開所式も併せて行われました。支援を受ける5社にクオリプス社が選ばれ、海外展開の足がかりができました。心筋シート治療を普及させるにあたり、必要な症例数も増えていきますが、以前から懇意にしているスタンフォード大学の心臓外科の教授が全面協力の名乗りを上げてくれています。アメリカで、さまざまな研究者とともにスピード感を高め、開発していきます。

 

バスケットボール部で学んだリーダーシップや人の動かし方

-- 澤先生は、どのような子ども時代を過ごされたのですか。

幼い頃は身体が弱くてぜんそくと食べ物のアレルギーがあり、何度か危ない目にも遭ったほどだったんですよ。中学ではバスケットボール部に入りました。元旦と終戦記念日を除く363日が練習日というような厳しい部活で、最初はついていくのがやっとでした。でもハードな練習を重ねるうちに、だんだん体力がついてきたこともあり、2年生の時にキャプテンになったんです。強豪校でしたから求められるミッションが高くて、リーダーとしての自覚や人の動かし方をすごく問われました。その経験があったからこそ、若手の時から仕事にがむしゃらに取り組めましたし、今もいろいろな場面でのマネジメントに役立っています。

--  医師を志したきっかけは。

子どもの頃は機械いじりが好きで、工学部に行こうと思っていたんです。でも、高校2年生の夏に、10歳ほど年上の従兄が交通事故で急死しました。2カ月前には一緒に食事をしたのに。夏の暑い日の葬式で、「人ってこんなに簡単に死ぬのか」と思ったことは今でも忘れられません。

それまではバスケ漬けの毎日でしたが、医師を目指す方向にシフトして、大学受験のためにものすごく勉強しました。たまたま現役で入れてしまったので、また羽目を外してしまいました(笑)。あまり勉強はせず、毎日スキーとテニスばかり。ところが、雪が溶けてスキー場から大阪に帰る頃、周りが国家試験の勉強を始めているのに気付き、学業に引き戻されました。僕も競争心が強いほうなので、6年生の夏頃から1日12時間以上必死に勉強しましたよ。

-- すごい集中力ですね。

オンとオフがはっきりしているんです(笑)。合格後、「医学は体で覚えるしかない」という体育会系な考えで、一番厳しいといわれた第一外科に入ったんです。この時の教授が、心臓外科の基礎をつくられた川島康生先生でした。学問も医療のスタンスも一切の妥協が許されない医局でしたね。私も徹底してやる性格でしたから、研修医の中で誰よりも医局で寝泊まりをして、体を張って患者さんを診ていました。

医師になって10年近く経った1989年、川島先生の許しを得て、フンボルト財団の奨学金でドイツのMax-Planck研究所に約3年間留学しました。ドイツの生活では、日本の文化とは全く違うことに驚きました。個人が重視され、教授も学生も友人のように付き合っているんですよ。そこで組織のあり方を学び、教授に就任した時にそれを取り入れました。ピラミッド型の組織は上からの指示を待つばかりで成熟しにくいんです。「組織は円柱形であるべきで、研修医であれ、学院生であれ、どんな立場であっても、みんなが自分の力を最大限に発揮できるように、私は精いっぱい応援する」とよく話したものです。

-- 上司とフラットな関係性のなかで、さらに応援してもらえたら、後輩や部下の方々はやりがいを感じるでしょうね。

 

未来医療を実現する若手人材の育成は日本の喫緊の課題

未来医療の国際拠点「Nakanoshima Qross(中之島クロス)」
(提供:一般財団法人未来医療推進機構)

-- 今後も心筋シート治療の普及に尽力していかれるのですね。

はい。さらに、一般的なカテーテル治療においてもiPS細胞を使いたいと思い、海外で開発中です。開胸手術をせずにすみますし、早めに心機能の低下を抑えられるから心不全の予防ができるんです。この治療で、30%まで落ち込んだ心機能が60〜70%まで戻るようになると見込んでいます。カテーテル治療は毎年約25万件も行われているんですよ。

また、今後スタンフォード大学では、もっと培養できる細胞の種類を増やしたいですね。日本での研究開発の手応えを生かしながら少し戦略を変えて、臓器や組織を模倣した3次元構造体(オルガノイド)を利用し、さらに有効な細胞シートを開発しようと進めています。まずはシンプルな細胞から始めてバージョンアップさせていきます。

-- 心筋シートの研究開発で得られた知見を応用展開していくのですね。

そうなんです。日本では、クオリプス社での製品化までのノウハウをもとに、ベンチャーを育てようと取り組んでいます。大阪の中之島で未来医療を実現していく「NakanoshimaQross( 中之島クロス)」という財団の理事長をしているんですよ。日本は拠点づくりにばかり力を入れていますが、むしろ足りないのは、ベンチャー企業をサポートするインキュベーターと、アントレプレナーシップ(起業家精神)だと思っています。僕が10年ほど前から共同研究しているスタンフォード・バイオデザインという教育の仕組みを生かして、シーズを見いだして「中之島クロス」で社会実装をするジャパン・バイオデザインをやりたいですね。やはり産学連携が大事だと思います。

 

-- 起業家を志す方々はどういったことを学ぶのですか。

ジャパン・バイオデザインでは、クリニカルイマージョンというワークがあるんですが、4人一組で病院の中を見て回り、ニーズを200個探すんです。例えば、看護師の方が点滴の針を入れにくそうにしているとかね。では、それをどうやって技術で解決するかについて、ブレインストーミングをして、試作品をつくったり、先行特許がないか探したり。ほかに、法律や業界内の規制、製造に関するプロセスを教えるのも大切です。そして、ベンチャー企業が生まれ、上場企業に成長したり、製品が生まれたりしていくんです。日本にもどんどんベンチャー企業が生まれていくようになるといいですね。ゲノム医療やAI医療など激しい変革のなかで、先端医療開発と次世代医療人材の育成、そしてそれを実証する場があれば。「ものづくり」や「ひとづくり」を通して「まちづくり」につなげたいという思いです。

-- いずれは日本社会の変革にもつながるかもしれませんね。

そうであってほしいですね。僕がドイツに留学したのは、東西ドイツが統一される時でした。あの頃、日本はものすごく競争力があって世界を圧倒的に支配していました。当時のドイツは、僕の目から見たら質素にやっている印象だったけれど、今やGDPは倍ですよ。円でいうと1千万円ぐらいです。日本は4、500万円ぐらいでしょ。海外は、金利がどんどん上がりながら経済が回るから、給料が2~2.5倍ぐらい、物価も2倍以上に上がっています。この前、アメリカで小さいペットボトルの水を買ったら約500円でしたよ。日本は経済が小さくしか回っていないんです。給料も上がらず下がっているぐらいじゃないかな。何も増えていないから、あらゆる分野で抜かれています。この30年の間に、日本の国際競争力は海外と比べてかなり落ちていますね。

-- 「中之島クロス」から世界をけん引するような若手や製品が育ってくれたらいいですね。澤先生は、大阪・関西万博にも携わっていらっしゃると伺いました。

はい。「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに掲げる大阪・関西万博で、パビリオンの制作に関わっています。戦争や感染症、災害、超高齢化など、世界が数々の困難に直面する今こそ、命の尊さを伝えたいですね。学生たちとの「inochi未来プロジェクト」にも取り組んでいます。

-- コロナ禍で健康や命と向き合った若者も多いでしょうね。

そうですね。ただ、コロナ禍みたいなものはまた必ずやってきますよ。人類はウイルスや菌には勝てません。だから、そのつど新しい知識や技術を生み出して闘い続ける。人が病気で死ぬことがなくならない限り、医療は進化せざるを得ない。これを医学のレジリエンスといいます。医学はこのレジリエンスをもって、人類を生き残らせていくものだと思っています。

医療以外の分野の技術が、医療に貢献してくれることもよくあります。三洋化成にも外科手術用止血材がありますね。心臓の血管と人工血管をつなぐためには糸で縫うんですが、針穴から血が出てしまったり、血管が弱っていて縫うと破れてしまったりします。そういう時、この止血材を流血部位に塗布すると、速やかに部位を覆うふたになって、流血を止めてくれるんです。科学の発展が、従来は難しかった手術の成功を助けてくれる例です。医療業界に「こんなものが必要だ」というニーズがあって、それにフィットする製品が開発されて、医学と科学は一緒に進化していくんです。

僕自身も臨床試験や研究開発、製品化などいろいろなことをやっていますが、全ての目的は患者さんの命を救うためです。医師になって多くの方が亡くなる時に残念な思いをしたからこそ「人の命を助けない医師なんて嫌だ、人の命を救いたい、患者さんを死なせない」と強く思っています。

-- 命を救うことに対する先生の情熱を感じました。本日はありがとうございました。

 

と   き:2023年11月29日
と こ ろ:西新橋・当社東京支社にて

The post 医学と科学の二人三脚で、人類を病気から守る first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>
/magazine/archives/8045/feed 0
土を通して、人間と自然の共存の道を探る /magazine/archives/7800?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e5%259c%259f%25e3%2582%2592%25e9%2580%259a%25e3%2581%2597%25e3%2581%25a6%25e3%2580%2581%25e4%25ba%25ba%25e9%2596%2593%25e3%2581%25a8%25e8%2587%25aa%25e7%2584%25b6%25e3%2581%25ae%25e5%2585%25b1%25e5%25ad%2598%25e3%2581%25ae%25e9%2581%2593%25e3%2582%2592%25e6%258e%25a2%25e3%2582%258b /magazine/archives/7800#respond Thu, 11 Apr 2024 06:02:49 +0000 /magazine/?p=7800 写真=本間伸彦 私たちの身近にあるにもかかわらず、いまだ謎の多い土。カナダ極北の永久凍土からインドネシアの熱帯雨林まで世界各地を飛び回り、土の成り立ちや栄養を持続させる方法を研究しているのが、土壌学者の藤井一至さんです。…

The post 土を通して、人間と自然の共存の道を探る first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>

土壌学者
藤井 一至〈ふじい かずみち〉

Kazumichi Fujii
1981年富山県出身。国立研究開発法人森林研究・整備機構森林総合研究所主任研究員。京都大学農学研究科博士課程修了。博士(農学)。京都大学研究員、日本学術振興会特別研究員を経て現職。著書に『土 地球最後のナゾ』『大地の五億年 せめぎあう土と生き物たち』などがある。
写真=本間伸彦

私たちの身近にあるにもかかわらず、いまだ謎の多い土。カナダ極北の永久凍土からインドネシアの熱帯雨林まで世界各地を飛び回り、土の成り立ちや栄養を持続させる方法を研究しているのが、土壌学者の藤井一至さんです。
土が持つ驚くべき機能や性質は、地球環境や私たちの生活にどう関わっているのでしょうか。土を改良する研究が農業に生かされる面白さについても伺いました。

土とは何か

-- 土は私たちの足元にある身近なものですが、どのぐらいの深さまでが土なのですか。

東京は、富士山が噴火した時の火山灰などが溜まっているので、数百メートルの土があります。京都は土が流れやすいので、60センチメートルぐらい掘ると岩石が出てきます。このように場所や地形による違いもありますが、土は約100年で1センチメートルぐらい堆積します。1メートルほど掘れば、1万年前の縄文人が暮らしていた地面に行けるんですよ。

-- 土はどのようにしてできるのですか。

土とは、もともとそこにあったものや、風や水に運ばれてきた砂などが、気候や腐った植物、動物の死体、微生物などと関わりながら変化したものです。これらが水を含んで粘土になって、さらに微生物がたくさん住んで活動しているものを「土」と呼びます。大さじ1杯の土に、およそ100億個の微生物がいるといわれています。世界の人口以上の数です。土は砂より粒子が小さくて微生物が住みやすいんですよ。

-- 土の中には、たくさんの微生物がいるんですね。

はい。土の中では、微生物たちが生存戦略をもとに、自分勝手にそれぞれにとってベストな活動をしています。互いに関わりあって共生し、土が作られていく。

このようなものを、創発現象といいます。例えばシロアリは一匹一匹が一生懸命土を運んでいるだけで、どんなものを作ればいいのか分かっていないけれど、最終的には立派なアリ塚が完成します。社会も同じで、一人ひとりが日々、仕事や生活をした結果、大きな街が出来上がる。どちらも設計図はありません。自然界に土ができたのは、奇跡に近いと僕は思います。

-- 土は意図されてできるものではないから、不思議ですよね。よその場所から砂が飛んでくると、土の中の生態系はさらに複雑になりますね。

そうなんです。砂の粒は約0.2 ~ 2ミリメートル、粘土は2マイクロメートル以下なので、風でかなり遠くまで運ばれます。ゴビ砂漠から飛んだ砂は、大きな粒が北京で落ちて、比較的細かい粒は日本や太平洋に落ちて、最後はハワイまで到達するといわれています。サハラ砂漠から飛んだ砂は、日差しと雨を強烈に受けるアマゾンの熱帯雨林に栄養を与えているんですよ。

-- 風が運ぶ砂が、遠く離れた地域にも栄養をもたらしているのですね。日本の土は、栄養豊富で農業に適しているのでしょうか。

日本は雨が多くて栄養素が流されやすく、カルシウムの少ない酸性の土です。雨が多い所では稲、降雨量が少ない所では蕎麦というように環境に合致した植物を栽培していることが多い。水があるから、毎年割と安定して収穫できます。世界一肥沃な土壌といわれるカナダのチェルノーゼムは、乾燥地帯でカルシウムが豊富なため、小麦やトウモロコシなどの栽培に向いているんです。

-- 地域に適した作物があるのですね。畑の土は耕して土に空気を入れたほうがいいのですか。

それは土によるので一概には言えません。土が粘土のように固く植物が生えない場合は、耕して柔らかくすることが必要です。しかし、もともと肥沃な土地は、耕し過ぎると微生物が有機物を分解しすぎて栄養がなくなってしまうこともあるんです。そのような地域では、土をあまり耕さない不耕起農業が生まれています。ほかにも、有機農業や自然農業など、自然に近い農法があります。一方アメリカなどでは、テクノロジーを活用して土を耕す必要をなくしている地域もあります。除草剤で管理しやすい遺伝子組み換え作物を作り、広大な農場で大量に栽培するんです。

-- 収穫量を増やすために、いろいろと試みられているんですね。

 

土を巡る問題が人間の生活を大きく変える

-- 藤井さんはどのように土壌改良をしているのですか。

実は、宮沢賢治に近いことをしているんです。賢治は恩師であるせき豊太郎がドイツで習得してきた最新の化学を盛岡高等農林学校で学んだので、当時としては土に一番詳しくて、酸性土壌を改良するために石灰の普及に尽力しました。ただこの方法は、窒素やリンといった肥料とは異なり、土から良くするという考え方です。長い目で見て初めて効果が出るものなので、農家の方々の理解をなかなか得られず苦労したそうです。

僕は賢治のしてきたことをアップデートして土を改良していきたいと考えています。同じ土で同じ植物をずっと植え続けていたら、そのうち栄養分がなくなって、だんだん収穫量が落ちていきます。気前よく肥料をまき過ぎたら、肥料焼けして育ちが悪くなります。植栽や施肥などのバランスも難しいんです。フィリピンで大規模なバナナ栽培に携わったことがあります。いかに安くたくさん作るかというのも大事ですが、一種類の作物を大規模に栽培し続けると病気が発生しやすい。そこで、アグロフォレストリーという考え方を採り入れて、もともとの森の木をバナナの間に植えてバナナを半分にしてみたら、うまくいきました。

-- 土を生かし、土の栄養を持続させる方法を模索していらっしゃるのですね。

はい。例えばインドネシアで土を分析し、石灰を入れて土壌改良をするといいとわかったとします。でも、石灰がなかったり、現地の人が買えなかったりする。そういう時は、現地にあるもので代替できないか考えます。現地であまり使われていない植物で、カリウムやリンを多く含むものを土に混ぜると、肥料の代わりにもなり、土が中性に近づくので、コストも浮くし生産量も上がって儲かる。ひと工夫を加えて、あとは現地の人たちにやってもらうようにすると、土がどんどん回復していきます。農業は生業ですから、知識や技術を伝えるだけではなく、安価に実施できたり、利益を生んだりしないと、定着しにくいんです。

-- いろいろな土や植物を知っているからこそできる提案ですね。今、土についてはどういうことが問題視されているのでしょうか。

2015年は国際土壌年でしたが、この時、「2050年までに世界中の9割の土が使えなくなる」という予想が発表されました。これは推定値の中の最大の数値なのですが、きちんとデータがある調査でも、15秒にサッカーコート1枚分の土が捨てられています。

--  えっ。それは大変です。

1980年頃から砂漠化は問題視されていますが、どこか遠い国の問題のようなイメージがありませんか。土の問題を深刻にとらえるのはなかなか難しいんです。
砂漠化というと、砂漠が森や村を飲み込んでいくようなイメージを持っている方が多いです。しかし実際は、畑の土が劣化して、毎年10%、20%と少しずつ畑の収穫量が落ちていって、そのうち畑として使えなくなり、徐々に捨てられていくという現象なんです。そして、もともと使っていなかった、あまりいい畑になりそうにない森を切り開いて、そこも使い倒してしまう。農業で使う地下水もくみ上げ過ぎて、塩が持ち上がり、何も育たない土になってしまいます。この塩害が原因でメソポタミア文明は滅んだといわれています。

-- 塩分が出てしまった土地はどうするのでしょうか。

塩分を洗い流すためにたくさんの水が必要なので、特に乾燥地帯では簡単なことではありません。カザフスタンとウズベキスタンにまたがる塩湖のアラル海は20世紀最大の環境破壊を受けたといわれています。旧ソ連時代に綿花を栽培するために、アラル海に注ぐ2本の大河の水をたくさん使い過ぎて、塩が析出した広大な土地と、小さくなってしまった湖だけが残った。アラル海の急激な縮小で漁場が遠ざかり、塩分濃度が上がって魚がいなくなったせいで、各地の漁村では数万人もの移民が生まれたと推測されています。一般的に、水がなくなって食料不足になると政権への不満が募り国内が混乱します。世界で力を持っている国は巨大な河川の蛇口を握っているといわれていますよね。
土にはもう一つ難題があります。土は水と同じく社会的共通資産ですが、私有地という側面もあります。個人が自分の土地をどう耕すかは自由です。人類が種として地球環境を守り存続を目指すのか、個の自由を尊重するのか。土ってけっこう厄介なんですよ。

-- 確かに、私有地に対する考え方は人それぞれですものね。日本の土に影響を及ぼすような環境の変化はありますか。

日本は雨が多いので砂漠化はしませんが、最近の夏は暑過ぎて雨も少なく、水不足が深刻な一方で、ゲリラ豪雨も増えています。作物が育たないことに加えて、例えば2018年の北海道・胆振いぶり東部地震のように、災害も起こりやすくなります。この地域は、園芸用にも使われるような保水力のあるいい土なんですが、それが裏目に出て、台風で大雨が降ってぬかるみ、地震をきっかけに土砂崩れも起こってしまったんです。このように、これまで災害危険地域ではなかった所でも、予想外の災害が起こることが増えています。

-- 夏の猛暑による土の乾燥だけでなく、想定以上の雨量で土が流れてしまうこともケアする必要があるのですね。

 

 

 

土の中で起こっている反応を全て化学式で表せたら

土の採取(栃木県日光市)

-- 藤井さんは、なぜ土に興味を持つようになったのですか。

もともと石や土が好きな子どもで、高校時代に、世界の人口増加による食料問題や砂漠化に関心を持つようになりました。しかし大学に進むと、環境系の授業は情緒に訴えるようなものが多くて、意外に思いました。土の中で起こっている反応を全部化学式で表し、土の現象を予測することができたら、食料不足など社会問題を解決する武器になるんじゃないかと、土壌学を選んだんです。今はまだ、土の現象の全てを化学式で表せていませんが、自然現象の仕組みと、それをどう使って持続的な農業をやっていくかということに関心を持っています。

-- 土を研究されるなかでのご苦労は。

はい。スコップ一つ持って世界中に行って土を持ち帰りたいのですが、その土地の所有者や村人全員の許可を取らないといけないので大変なんです。ロシア、中国、ブラジルなど資源ナショナリズムが強い国は土の持ち出しを禁じています。例えば、ブラジルには天然ゴムを枯らすカビがいて、これが国外に出ると生物兵器になります。遺伝子資源や生物資源を持ち出されることに対する危機感はかなり高いんです。
昔から世界には微生物ハンターがいて、大手製薬会社が世界中から土を集めて有用な微生物を探しています。世界中の土にはまだまだすごい細菌がいるのですが、土から取り出して培養できるものは1%ほど。うまく取り出せる有用な微生物から薬や化粧品の新しい成分が作れます。2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智博士は、静岡県のゴルフ場の土壌から有用な細菌を発見しました。これを活用して、感染症に有効な飲み薬の成分としてイベルメクチンを開発したのです。その微生物を外国人が見つけて持ち帰って実用化したら、私たち日本人だって悔しいじゃないですか。そういう理由で、外国の土を研究することが、その国の生物資源や現地の人の権利を脅かすことにならないよう、気を付けています。

--  なるほど。近年の科学技術の発展で、土壌学も変化しているのでしょうか。

ここ20年で、土の中にどんな微生物が住んでいるか、比較的簡単に安価で分析できるようになりました。植物や微生物を、AIや3Dプリンターを使って人工的に作ろうという取り組みも進んでいますよ。僕がもし土を人工的に作るなら、土が土そのものを作り上げて再生できる、自律性と持続性を再現してみたいですね。

-- 土は人工的に作れるのですか。

いいえ、僕が粘土と水と微生物を混ぜてみても、土は簡単に作れるものではありません。AIは膨大なデータを学習して賢くなっていきますが、土の中では、1万種類もの微生物が、5億年間ずっと環境と相互に作用しながら、どうするのがベストなのか試行錯誤し続けています。AIが目指しているものに、土が先に近付いているのかもしれませんね。
AIはルール違反を苦手としますが、土の中ではルールがどんどん変わっていくんですよ。ワインの風味が地域によって違うのは、関わる微生物が違うから。微生物は、土から茎を通って、ブドウの実まで移動します。どこでも全て同じルールだったら同じワインが作れるはずですよね。

--  予想通りにいかないところや地域によって土に個性があるところも、興味深いのですね。

 

 

日々の食事と密接につながる土のことを知ってほしい

インドネシアでの農業支援

最近では食料安全保障が話題になって、日本でも少しずつ土が注目され始めています。でも、このテーマは、世界中で食料を融通し合いながら確保するという視点が変わって、日本が自国の食料をどう確保するのかと閉鎖的になりがちです。加えて、昔は8割が農家でしたが、今は専業農家が1.3%ぐらいで、土に詳しい人は少ない。都市部の人口が圧倒的に増えていて、土や食料、農業がどんな問題を抱えているかほとんど知らないままに、農業政策を決めたり、一票を投じたりしなければいけない状況です。
日本についてはもちろん、世界の農業や土のリアルな現状を、もっと多くの人に知ってほしいと、僕は思っています。世界一肥沃なチェルノーゼムも水不足で砂漠になってしまうかもしれないし、日本の酸性土壌でも石灰をまいて中和すればちゃんと食物が育つ。そういう知識を持つ人が増えたら、議論の内容は違ってくるのではないでしょうか。

-- そうですね。どんな活動をすれば土への理解が深まりますか。

土に触れる体験を増やすのは一つの手ですよね。小学校ではよく芋掘りをしますが、収穫するだけでなく、ぜひ雑草を抜くなどの体験もしてほしいですね。家庭菜園も、土に苗を植えたり、水をやったりできます。例えばイチゴは採ってすぐ食べると、すごくおいしいし、香りが全然違います。
家庭菜園は少しハードルが高いという方は、自分が毎日何を食べているか、その食べ物はどこから来たのか、考えてみてほしいです。ニンジンやホウレンソウの産地はどこかとか、ブラジル産の牛肉を食べたら、熱帯雨林の赤土で育った草を食べて大きくなった牛なんだなとか。カナダで山火事が起きて日照不足になれば、チーズやバターの値段が上がるから買いだめしておこうというように、役に立つこともありますよ(笑)。そうすると、日本や世界の食品の産地のこと、農業や畜産のことに考えがつながっていくと思います。これを私は「バーチャル・ウォーター」ならぬ「バーチャル・ソイル」と呼んでいます。楽しく土とつながることができるので、おすすめです。

--世界のいろいろな土から生産される食品をいただけているんですね。今夜の食卓に並ぶ食品がどこから来たのか考えてみたいと思います。本日はありがとうございました。 

 

と   き:2023年9月25日
と こ ろ:西新橋・当社東京支社にて

The post 土を通して、人間と自然の共存の道を探る first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>
/magazine/archives/7800/feed 0
本当に大切なものは当たり前にあるものなんじゃないか /magazine/archives/7545?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e6%259c%25ac%25e5%25bd%2593%25e3%2581%25ab%25e5%25a4%25a7%25e5%2588%2587%25e3%2581%25aa%25e3%2582%2582%25e3%2581%25ae%25e3%2581%25af%25e5%25bd%2593%25e3%2581%259f%25e3%2582%258a%25e5%2589%258d%25e3%2581%25ab%25e3%2581%2582%25e3%2582%258b%25e3%2582%2582%25e3%2581%25ae%25e3%2581%25aa%25e3%2582%2593%25e3%2581%2598%25e3%2582%2583 /magazine/archives/7545#respond Fri, 19 Jan 2024 01:51:22 +0000 /magazine/?p=7545 写真=本間伸彦   2023年初夏号から、本誌の表紙・巻頭で「グレートジャーニーで出会った多様な人・家族・コミュニティー」の連載を開始された、探検家の関野吉晴さん。大学生時代にアマゾン川全域を探検し、南米に魅せ…

The post 本当に大切なものは当たり前にあるものなんじゃないか first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>

探検家・人類学者・医師
関野 吉晴〈せきの よしはる〉

Yoshiharu Sekino
1949年東京都出身。一橋大学法学部在学中に探検部を創設し、アマゾン川全域を探検する。一橋大学を卒業後、横浜市立大学医学部に入学。南米を中心に世界中を探検。1993~2002年、アフリカに誕生した人類がアメリカ大陸にまで拡散した約5万3千kmの行程「グレートジャーニー」を遡行する旅を行う。10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」は2004年7月に出発し、「北方ルート」「南方ルート」を終え、「海のルート」は2011年6月13日に石垣島にゴールした。
写真=本間伸彦

 

2023年初夏号から、本誌の表紙・巻頭で「グレートジャーニーで出会った多様な人・家族・コミュニティー」の連載を開始された、探検家の関野吉晴さん。大学生時代にアマゾン川全域を探検し、南米に魅せられて以来、世界各地を旅し、医師として現地の人を助けながら、交流を通して親睦を深めています。

世界中の民族から学んだ、生活の知恵や、人生において大切なことを伺いました。

南米アマゾンにひかれ未知の世界に飛び込む

-- いつ頃から、探検に興味を持つようになられたのですか。

高校生の時に、周りの友達と違って夢や目標が持てず、「全く違う文化や自然の中に自分を放り込んだら、違った自分が見つけられるかも」と考えたのがきっかけです。入学した一橋大学で探検部を創設し、1年生ながら部長になりました。

-- 探検部とは、どんな活動をするのですか。

あまり人が行かないところに行ったり、人がしないことをやったりしたいという人の集まりです。今は地球上に未知の場所はほとんどなくなっていますが、見方が違えば同じ場所でも違ったものが見えるんですよ。

-- ワクワクしますね! 最初の探検ではどちらへ。

早稲田大学の探検部が世界最長のナイル川に行ったと聞いたので、それに対抗して、世界一流域面積の大きいアマゾン川へ行くことに。旅費をためるためにアルバイトもがんばりました。

大学のゼミの教授が「法学部に入ったからといって法律をやることはないんだよ。単位を取るための勉強は必要だけれど、いろいろな本を読み、いろいろな人に出会い、いろいろな場所に行って、物の見方や考え方を一つ持って社会に出ていきなさい。その見方は後から変わってもいいよ」と言ってくれたんです。そこで僕は、南米の未開社会の慣習や法律について、文化人類学的に調査をして発表しました。もう一人のゼミ生はインドのことを勉強していました。自分は何をしたいのか考え、自分で問いを立てる、これが本来の学びの姿だと思います。この先生には今でも、探検に行った先のことを報告していますよ。

-- 60年近くも探検レポートを提出し続けているのですね。探検と聞いた時の、ご両親の反応はいかがでしたか。

両親は、危険だからとずいぶん反対しましたし、今でも反対なんですよ。僕は一つのことに夢中になると他のものが見えなくなってしまう性格なのかもしれません。大きな影響を受けた、ジャン・ジャック・ルソーの『告白』に「私はあるものにとらわれると、他のことがどうでもよくなる。地球がひっくり返ろうが、それ一つに邁進してしまう」という一節があるんですが、読んだ時に「僕のことだ!」と思いましたね。

-- 夢中になれることも才能の一つですね。アマゾンには一人で行かれたのですか。

川下りをしないといけないので、一橋大学のボート部の友人と法政大学の友人を引っ張り込んで三人で。当時はまだ海外渡航が自由化されていなかったので、学術探検隊として渡航許可を申請したんです。バイトで必死にためた最低限のお金を持ち、ビザの関係で仕事はできないので宿泊はテントか居候。泊まらせてもらった家では大工仕事や皿洗いなどを手伝いました。当時は日本にアマゾンの情報がほとんどなく、あっても実際行ってみると違うことが多かったです。船で行ける川の周辺は見知った風景でがっかりしたのですが、荷物を担いで歩いて踏み入らないと行けないような場所には、本当の未知が残っていて、奥地に入っていくにつれて面白くなって、滞在した1年間で南米に魅せられましたね。

帰国してから、英語やスペイン語のアマゾンの資料を読むと、僕らが行った地域の近くに、地図で空白の場所があったり、スペインに滅ぼされたインカの末裔が住む地域があったり。「これはまた行くしかない!」と熱くなりました。

-- それは楽しみですが、また旅費をためないといけません。

はい。その頃、新聞記事で見つけたアドベンチャープラン募集の企画に応募して、新聞社から補助金をもらえることに。アマゾンで7カ月過ごした後、条件だった新聞での連載を始めたんです。

-- ご自身の探検を記事にされたんですね。卒業後の進路はどうお考えだったのですか。

探検家になりたかったんですが、日本では探検家では食べていけませんでした。また、アマゾンで出会った人たちを、取材や調査の対象とするのではなく、彼らと友達でいたいという思いがありました。そこで医者になれば彼らの役に立てると考え、医学部に入り、6年間の長期休暇はほとんど南米に行っていました。すると少しずつ名前が知られて、写真や雑文が売れ、テレビの取材にも同行するようになりました。

-- 日本におけるアマゾンの第一人者になったのですね。

 

人類拡散の旅「グレートジャーニー」を逆ルートでたどる

-- なぜグレートジャーニーに注目したのでしょうか。

南米の先住民たちの顔立ちはアジア系に近く、彼らも私を現地人と間違えるほど。一方で、アジアから遠く離れた場所になぜ私と似た顔立ちの人たちがいるのかと疑問に思い、人類の起源を探そうと思い立ったんです。アフリカで誕生した人類が世界に拡散していった道のり、グレートジャーニーを逆にたどってみようと。太古の人たちは何を考えていたのだろうと思いを馳せて、移動は人力で。陸は徒歩や自転車で、海はカヌーかカヤックで。高校の時に柔道部やラグビー部で培った体力が生かされました。

-- 現地の人とのコミュニケーションはどのように。

新大陸は大抵スペイン語か英語が通じますし、先住民と会う時はあらかじめ彼らの言葉を勉強してから行きました。言葉によるコミュニケーションだけでなく、彼らと同じ目線に立って接することも大切です。南米の先住民のマチゲンガは普段、他の地域の人間と接することがないので、僕たちが行った時は警戒し、逃げていきました。言葉がわかる人に説得してもらいましたが、2度目もまた逃げられました。

-- 先住民でなくても、見知らぬ人に対しては警戒しますものね。

撮影用の照明など彼らが怖がるような道具を使ったり、彼らを動物のように扱ったりすることは絶対してはいけないと考えていました。ここは彼らの土地だから、ここでは彼らが上だと敬意を示すように心がけ、徐々に認めてもらえるようになりました。1カ月ほどかかって彼らと仲良くなり、彼らの名前や年齢、慣習を聞くなど、たくさん会話をしました。

ビザの関係で帰国する時、「次はいつ来るんだ」と聞かれたのですが、彼らには数の表現が3までしかない。1カ月をどう伝えようかと考えて「次の満月の時に来るよ」と答えたんです。実際1カ月後に行ってみると、彼らは少し移動していたんですが、僕を待っていてくれて再会できました。彼らとはもう50年の付き合いです。出会った時に1歳だった赤ちゃんが、50歳になっていますよ。

-- 長年のお友達なのですね。医療の知識や技術は旅のなかで役に立ちましたか。

体の不調を治すと、とても感謝されます。現地にも薬草などを使った伝統医療はあるので、僕が西洋医学を持ち込むことで現地の医療や文化を壊さないように、現地の医学と西洋医学を臨機応変に使い分けて対応していました。ベネズエラのヤノマミという先住民族では、シャーマンが除霊することで病気を治す力を持つとされていて、彼の邪魔をしないように気を付けていたんですが、僕が医者だと話すと最初に彼が「頭が痛い」と言ってきました(笑)。人工的に霊視するために、幻覚剤を吸い過ぎていたんですよ。

また、ある時はエチオピアの先住民の検便をしたんですが、全然便を持ってきてくれないんです。数日してやっと若者が一人、厳重に葉っぱでまいて持ってきてくれました。「恥ずかしいから嫌なのかな」と思って聞いてみると、面白いことがわかりました。彼らにとって医師はマジシャンの一種であり、排泄したばかりの便はまだ体の一部だから、マジシャンに渡すと呪いをかけられてしまうかもしれないというんです。これは研究者も知らなかった、彼ら独特の身体感覚でした。この時、医者になってよかったと感じましたね。

-- 医師だからこそできた発見なのですね。そのような場所で長く過ごすと、日本に帰ってきた時に違和感があるのでは。

帰ってきた直後は時間のサイクルが合わないですね。先住民の移動のスピードはせいぜい時速2〜3キロメートルですが、日本の街なら車や電車で、10倍の時速30キロメートルです。

-- 最近よく聞くようになったタイム・パフォーマンスやコスト・パフォーマンス、時短などという言葉とは対極の暮らしですね。

中国・青海省での診療(2007年)

 

自然と暮らす人々に学ぶサステナブルな暮らし

熱帯で生まれた人類が、極北シベリアや北極圏まで行けるようになったのは、人類の長い歴史で、針の発明以降のことなんです。シルクロードまでは毛皮を羽織っていればいいのですが、それより北では凍死してしまいます。針と糸で服を縫い、自分の熱で保温できればマイナス40度でも大丈夫。針の発明がなければ、まだ人類はベーリング海峡を渡れず、新大陸に到達していなかったかもしれません。

-- なるほど。針のおかげで、極北まで移住できたのですね。南米でアジア人に似た人がいるのはわかるのですが、アフリカから極北へ向かう途中のヨーロッパの人たちが白人といわれるのはなぜですか。

肌の色には気候が大きく関係しています。人間は皮膚で紫外線を吸収して体内でビタミンDを作るんですが、北は紫外線が弱くて黒い肌では紫外線を十分に吸収できないため、白い肌になって生き残りました。片や、アフリカにすむ人の肌が黒いのは、強過ぎる紫外線によって、子孫を残すために必要な葉酸を破壊されないようにするため。このようなことを知ると、肌の色で優れているとか劣っているとか決めるのが、いかに愚かなことかがわかります。また、「ベルクマンの法則」というものがあり、動物は寒い地域に行くほど大型になり、寒さを克服しているんです。人類も同じで、北に行くほど背が高いです。ただ、北極圏の先住民のエスキモーは、住み始めてまだ数千年ですから、肌も白くないし体も大きくない。

-- 肌の色の変化は住んでいる場所の気候に対応しただけなんですね。関野さんはいろいろな地域を回られましたが、やはり南米には特別な思いがあるのですか。

はい、最後に一カ所だけ行くとしたらやはりアマゾンです。友達もたくさんいますし、彼らからは学ぶことも多く、僕の師匠だと思っています。彼らほど、サステナブルな人はいません。素材がわかる生活ゴミ、排泄物や死体は、最後は土になります。自然の循環の輪の中にいるんです。一方、僕らの生活はどうでしょうか。

-- 街に住む私たちが持続可能な世界を目指すには。

都市でもサステナブルな生活に近付くことはできると思います。イロコイというアメリカ東部の先住民は、大事なことを決めるときに「7代先の人たちにとってどういう意味があるか」と考えるそうです。この考え方はアメリカ合衆国憲法にも影響を与えたといわれています。7代先というと、200年先ですが、現代で200年先は全く別の世界でしょうから、私たちは例えば50年先の孫の世代にどんな地球を残したいか、考えて行動してはどうでしょうか。

-- 想像がつくところまででいいから、考えてみようということですね。

その通りです。「もっともっと」という肥大した欲望が、さらにサステナブルの問題を解決しにくくしています。「もっともっと」ではなく「ほどほどに」。「足るを知る」ことが大事です。

マチゲンガの皆さんとともに(1982年)

 

過酷な環境を生き延びるには

-- いろいろな旅を通じて、感じられたことは何ですか。

一番大切なものは何だろうかということです。戦後、ポーランド人というだけでスパイ容疑をかけられ、シベリアの強制収容所に送られたおじいさんから、実は一番影響を受けたんですよ。粗末な家と食事で、マイナス60度の場所で強制労働させられたにもかかわらず、とても気さくで、80歳まで生きてこられた自分を「ラッキーだ」と言うんです。シベリア送りの間に奥さんと幼い子どもが病死し帰れる家も失って、ロシア人女性と再婚して年金で暮らしているんですが、普通はラッキーって言わないでしょう。初め「この人は理解できない」と思い、ずっと考えていたんです。

この人は、家族と好きな場所に住む、好きなことが言える、仕事を選べるなど、そういう当たり前のことを収容所で徹底的に封じられた。解放された時に雲の形も空の色も違って見えたということは、とてつもない解放感があったわけです。当たり前の大切さを味わってかみしめて生きているから、ラッキーだしハッピーなんだと後で理解できたんです。病気になって初めて健康のありがたさを感じる。空気や大地、水は汚れていないのが当たり前で、たぶん天から与えられたもの。それらは守らなきゃいけないんだと感じましたね。

-- 当たり前の大切さを失って初めて気付くのではなく、日々感謝できれば、とても幸せだということですね。さまざまな民族との出会いのなかで、若い人たちに伝えたいことは何でしょうか。

目標を持って生きるのは良いことですが、それに縛られすぎず自由に生きてほしいですね。人の適性というのは必ずしもすぐにわかるものではありません。

僕は全共闘世代で、偏差値教育のなかで目標や夢に向かって生きてきました。でも、マチゲンガは全く競争をせず、日々たっぷりと時間があるなかで暮らしています。またアマゾンの人たちは、遠い未来を考えないから、不安がない。過去も考えないから後悔しない。木から落ちて骨折しても「木に登らなければよかった」と後悔するのではなく、骨折した今の自分を受け入れて生きていくんです。

では、彼らには将来の安全保障はないのかというと、そうではありません。家族や周囲の人との強いつながりをつくり、困った時は助け合う、そういうコミュニティをつくることでみんなが生き延びられるということを長い歴史を通して知っているんです。僕はエチオピアの先住民を診療した時、親しくなった男性からヒョウタンになみなみと入れた蜂蜜をもらいました。蜂蜜は現地ではとても貴重で森の精霊の贈り物といわれ、それを贈ることは何かあった時に助け合う兄弟の契りという意味があるそうです。逆に、今の日本はお互いに助け合うコミュニティが希薄なので、老後のためにみんな一生懸命貯金していますね。

-- アラスカやヒマラヤなどの過酷な環境で人々が生き延びているのは、お互いに助け合ってきたからなのですね。人類の培ってきた大切な知恵を教えていただき、本日はありがとうございました。

ポーランド人のおじいさん。手にしているのは亡くなった奥さんの肖像(1999年)

 

と   き:2023年8月28日

と こ ろ:西新橋・当社東京支社にて

 

 

 

The post 本当に大切なものは当たり前にあるものなんじゃないか first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>
/magazine/archives/7545/feed 0
超高齢社会や有事に多くの患者を救う、在宅医療チームの志 /magazine/archives/7411?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e8%25b6%2585%25e9%25ab%2598%25e9%25bd%25a2%25e7%25a4%25be%25e4%25bc%259a%25e3%2582%2584%25e6%259c%2589%25e4%25ba%258b%25e3%2581%25ab%25e5%25a4%259a%25e3%2581%258f%25e3%2581%25ae%25e6%2582%25a3%25e8%2580%2585%25e3%2582%2592%25e6%2595%2591%25e3%2581%2586%25e3%2580%2581%25e5%259c%25a8%25e5%25ae%2585%25e5%258c%25bb%25e7%2599%2582 /magazine/archives/7411#respond Tue, 14 Nov 2023 07:22:00 +0000 /magazine/?p=7411 写真=本間伸彦   超高齢社会を迎える日本の医療提供体制を今まで以上に利用者の生活事情に即したものにしようと在宅医療の活性化に尽力している医師の守上佳樹さん。 守上さんの呼びかけを受けて、在宅療養する新型コロナ…

The post 超高齢社会や有事に多くの患者を救う、在宅医療チームの志 first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>

医師
守上 佳樹〈もりかみ よしき〉

Yoshiki Morikami
1980年生まれ、兵庫県の六甲学院高校、広島大学、金沢医科大学出身。よしき往診クリニック院長。日本内科学会認定内科医、日本老年医学会認定老年病専門医。京都府医師会若手医療ビジョン委員・地域ケア委員、西京区介護認定審査会委員、京都府警察医(西京警察署)、「all西京栄養を考える会」顧問。京都の総合病院や総合内科で勤務後、2017年4月によしき往診クリニックを開業。コロナ在宅療養者のもとに24時間365日体制で駆け付ける特殊往診チーム“KISA2隊(きさつたい)”結成の発起人。
写真=本間伸彦

 

超高齢社会を迎える日本の医療提供体制を今まで以上に利用者の生活事情に即したものにしようと在宅医療の活性化に尽力している医師の守上佳樹さん。

守上さんの呼びかけを受けて、在宅療養する新型コロナウイルス感染症(以下コロナ)患者を救うべく、京都で立ち上がった「KISA2たい」は、若手医師を中心に看護師や薬剤師などさまざまな医療従事者が集まった特殊往診チームでした。一人でも多くの人を救うために連携したいという熱意は、今では20都道府県に広がり、行政と連携する医療グループに成長しています。

コロナに立ち向かった当時の思いや在宅医療の必要性について守上さんに伺いました。

医療チームを組んでコロナ感染者の家へ

-- 2021年2月にKISA2隊(Kyoto Intensive Area Care Unit for SARS-CoV- 2 対策部隊)を結成された経緯をお聞かせいただけますか。

2017年に、僕は24時間365日体制で在宅医療を行うクリニックを開いたんです。医師や看護師などスタッフがたくさん集まり、3年ほどで受け持つ在宅療養者数が京都府下で1、2番手となるぐらいの規模のチーム医療を実施するようになりました。ちょうどその頃コロナ禍が始まりましたが、クリニックでは自分たちの患者しか救えません。そこで、クリニックをスタッフに任せ、京都府のコロナ在宅療養者を救いたいと、KISA2隊を立ち上げました。由来はこの頃人気だったマンガ『鬼滅の刃』の鬼殺隊からです。

-- 当時はどのような感染状況だったのでしょうか。

第2波ではまだ日本に患者は少なかったのですが、海外では医療崩壊が起こり始めていました。私は高齢者が多い日本で同じような状況が起こることを想定し、特殊往診チームのプランニングを進めました。2020年12月以降、第3波で急速に患者が増加し、日本で初めて、京都で搬送先が見つからなかった高齢の患者が亡くなりました。その週末にも2人目3人目が亡くなるかもしれないと、温めていたプランを実行に移すことにしたんです。

-- 感染すると、どのような症状が出るのか十分な情報もそろわないなか、コロナ患者の家を訪問されたのですね。

はい。自宅に帰ると家族も感染してしまうかもしれないので、一カ月くらいは帰りませんでした。日本でコロナ患者の家で診察することは前例がなく、どうなるか全くわかりませんでした。もしかしたら初日でメンバー全員が感染して死んでしまうかもしれない。マスクや防護服も不足していましたが、何とか工夫して調達し、しっかり防護して患者の家に向かいました。

-- 助けたい人たちがいるという思いで、活動を続けたのですね。

そうですね。注目されるわけでも補助が出るわけでもないですが、僕らが行かないと、ほかに行ける人がいない。そのような使命感で活動していました。

 

職種や分野の枠を超えて連携し一致団結してコロナに立ち向かう

-- KISA2隊の仲間はどのように増えていったのでしょうか。

活動を始めると同時に感染者が爆発的に増え、病床が足りない状況が続きました。在宅療養者を支援するスキームを確立するのは僕らが一番早かったので、この動きを牽引けんいんする側に回れたようです。最初は「自分がコロナにかかるかもしれないのに、どうしてそんなことをするんだ」と聞かれることが多かったんです。でも、救えた人数の実績が次第に積み上がっていくと、質問の内容が「どんなふうにやっているの?」と、WhyではなくHowの質問に変わってきて、賛同者も続々と現れ始めました。そこから広がっていくのは早かったですね。日本人は、誰かが率先して背中を見せれば勇気を持って付いていく人が多いと思います。医療関係者だけでなく、タクシー会社や介護関係、行政、公衆衛生の専門家、大学関係者なども応援部隊として集まりました。

-- KISA2隊のメンバーがそこまで増えていった理由は何でしょうか。

どんな分野もそうだと思うのですが、本当は職種の枠を超えて、みんなで肩を組んでやっていったほうがいいという思いは多くの人が持っているんでしょうね。ただ、なかなか既存の枠は超えにくいと考えてしまう。KISA2隊の動きは、そういう固定観念に対するアンチテーゼであり、殻を破る輝きのある活動だったと思います。

連携志望者はコロナ5類移行後も増え続けているんですよ。現在では20都道府県、千〜2千人の規模に。行政と連携する若手医療グループとしては戦後最大といわれています。KISA2隊のKは京都のKで始まりましたが、それが関西のKになり、今では国のKという人もいますよ(笑)。

-- リスクを恐れず挑戦する姿勢に賛同する方の輪が広がっているのですね。現在もKISA2隊の出動を必要とされる患者は多いのでしょうか。

満床のために入院できない方などを主に診ています。しかし、そもそも病床に余裕があっても入院できない患者は多いんです。例えば、知的障害を持つ子どもを抱えた高齢の女性は、自分が家にいないと子どもが生活できなくなってしまうことを気にされます。高齢独居の認知症患者は、家から病院に環境が変わるとパニックを起こし、認知症が進行してしまうことが多いのです。超高齢社会の日本では、そういった方がますます増えていきます。

-- 在宅医療の重要性は増していくのですね。今後、KISA2隊はどのような活動をしていくのですか。

当初はコロナの終息と同時に終了する予定だったのですが、せっかく大きな成果を出せたので続けてほしいと各所から要望がありました。確かに仲間や友達が増えますし、やっていて面白い。そこで、各地域の連携基盤としてコロナ患者の対応を続けながら、災害など次の有事に向けて備えることに。さまざまな緊急事態に対して、地域や職種を超えた連携を行い、スピーディーに動けるのではないかと思います。KISA2隊のメンバーはよくSNSやオンライン会議で勉強会などを開催し、熱心にやり取りをしていますよ。

-- コロナ禍をきっかけに生まれた診療スキームやネットワークは、災害などの緊急事態にも機能できるように備えているのですね。

KISA2隊メンバーが集う「柱合会議」(『鬼滅の刃』にちなむ)にて(2022年)

 

世界一の超高齢社会が到来 在宅医療体制の必要性

-- KISA2隊のベースとなった在宅医療について教えていただけますか。

日本は世界一の超高齢社会で、2年後くらいには家のベッドから出られない患者が全ての病院のベッド数の合計よりも、多くなるといわれています。その受け皿となるのが在宅医療です。病院には24時間365日体制で医師や看護師が常駐していますが、同じ体制を地域でもつくることが急務なんです。もちろん、医師一人が全て対応することは不可能なので、チーム医療が必要。大勢の医師や医療関係者、いくつもの法人が連携して、地域全体に在宅医療の24時間体制を構築しなければなりません。クリニック開業当初、医師は僕一人でしたが、若い医師をどんどん誘っていって、6年目の今は常勤と非常勤を合わせて、各専門領域の医師約40人体制の医療チームで500名ほどの患者を診ています。

-- 在宅医療では、これからお世話になりますという患者と医師との面談が最初にあって、それから定期的に診察を受けていくのですよね。往診と在宅医療は、同じように医師の診察を家で受けるといっても、関わり方も違ってくるのでしょうね。

そうです。それ以前の関わりがなくて、突然、今日お腹が痛いから診てくださいという場合は、単発往診といいます。在宅医療は、その患者の生活全体に責任を持って、長期的にお付き合いしていく領域です。

年配の方が通院する時は、整形外科や眼科、内科などたくさんの科を回ることも多いんですが、在宅医療は、なかなか病院に来られない患者を月1回以上定期的に訪問して、全ての疾患を診る総合内科的な考え方です。もちろん、普段から関わりのある方から、容体が悪くなったと急な依頼があって向かうこともあります。

-- 24時間365日体制で、患者が必要な医療を受けられるようにチームをうまく動かす工夫は。

「メディカルコーディネーター」という職種をつくり、各患者に応じて歯科医などの必要な専門医を手配する、カルテを作成するといった業務進行をサポートする人を置くことで、医師の負担を軽減して診療に集中できるようにしています。医師は患者の顔や生活環境を見るのも大切です。

総合病院に勤めていた頃に、花瓶の水を入れ替えたり、落ちているゴミを拾ったりと、病院の環境を自主的により良くしてくれるメンバーがいることに気付いたのが、この体制づくりのアイデアの元になりました。そういう人こそが患者の心を感動させ、プラスになると考え、チームに加えたんです。

-- 円滑な業務進行をサポートするキーパーソンがいるのですね。在宅医療を志したのはなぜでしょうか。

勤務医時代に、長年診ている患者が徐々に来院できなくなっていくのを目の当たりにしました。杖をついて一人で来院していたのが、家族に付き添われて車椅子で来るようになって、そのうち患者本人は来られなくなってしまう。そこで、入院と外来と在宅医療の3本柱を、医療機関同士で連携して担い、自宅で医療が受けられるような体制をつくりたいと考えるようになりました。しかし、当時そういったクリニックはなかったので、じゃあ自分でつくろうと、総合病院を出て新たに事業を立ち上げたんです。

大学病院や総合病院、地域医療などさまざまな現場で経験を積んだことが、患者と診る人をうまくつなぐことに役立っていると思います。人と人とをつなぐうえで、さまざまな相手の立場や考え方を理解することはとても重要です。

-- 患者の家に医療を届けたいと、思い描いていかれたのですね。

はい。65歳以上の高齢者が毎年どんどん増えて、亡くなる方も増えます。一方で病床数はなかなか増えない。すると、りも在宅医療領域が担うことが多くなるんです。今は2〜3人に一人ががんになる時代。余命の少ないがん患者も多く診ています。進行するがんの症状とどう向き合うかということも、大きな課題になっています。

-- がん患者も自宅で診られるんですか。治療に加えて、人生の最期をどう過ごしたいかという希望をかなえることも意図されているのですね。

はい。がん患者の在宅医療では、痛みを取ったりストレスを緩和したりといったことを主に行っています。ホスピスや緩和ケア病棟と同じような医薬品が使えますし、医療処置を行うデバイスも進化しているので、在宅医療で提供できる治療の幅は広くなっています。胸水や腹水を抜くとか、輸血や人工透析も家でできます。家族と一緒にいられて、病院とほぼ同じ治療が受けられるので、最期まで自宅で過ごすという選択肢が増えることになります。人によって、最期に大切にしたいことや選択したい医療は違いますから、医療の力で選択肢をできるだけ多く用意して、患者に選んでもらえる社会にしたいですね。

在宅医療は、病院医療と併用することもできるんですよ。数カ月に1度、病院で本格的な治療をして、毎日飲む薬は在宅医療で受け取るようにすれば、通院するためにかかる患者のストレスを軽減することができます。

-- 自宅でいろいろな治療を受けられるのですね。そして、在宅医療を受けていた方が亡くなった時は、家族はいつもの先生に連絡すればいいのですか。

そうなんです。実は今、大きな社会問題になっているのが、入院せず自宅で亡くなった方の死亡診断です。在宅医療にかからず通院をしていた方がある日突然亡くなった時に、家族が救急車を呼んでしまうと、救急隊は延命措置をしなければならないんです。もう亡くなっているとわかっているのに心臓マッサージをされて、遺体の肋骨ろっこつが折れてしまうことも。救急車を呼ばなかった場合は警察が介入し、検死を行って事件性がないかを調べることになります。遺体が戻ってくるまで時間がかかりますし、戻ってきた時には採血などでたくさんの傷が付いてしまっているんです。

-- 遺族にとっても悲しいことですし、救急隊や警察の方にも、なくてもよい負担をかけてしまうことになるんですね。

はい。在宅医療がこの問題の解決の糸口になります。日本には医師以外に死亡診断ができる職業がないですが、在宅医療を受けていれば、定期的な診療でその方の体の状況を把握していた医師が責任を持って、自然な死であることを証明できるんです。

死ぬということは、人生で1回しか経験できないので、自分事化する機会はとても少ないんです。特に核家族化が進む現代では、祖父母と離れて生活している人が多く、死を目の当たりにする機会も減っています。

-- 確かにそうですね。死は誰にも必ず訪れるので、その時どうするのか、どうありたいのか、考えておきたいですね。

研修医時代。恩師でもあるお父様と

 

人生の最期まで安心して過ごせる仕組みを

-- 多くの新たな取り組みをされていますが、そのモチベーションをどのようにして保っているのですか。

仕事では、いつもポジティブな考え方をするようにしています。唯一デメリットがないのが、ポジティブな考え方だと考えています。仕事は、どんな人でも逃れられないものなので、好きな仕事を楽しんでやったほうがいいと思います。

-- 今後はどのような活動をされていくのでしょうか。

地域と医療をつなぐ動きに加えて、最近は日本の医療の中枢からも声がかかるようになってきたので、積極的に関わっていきたいと思っています。そうすると、地域に埋もれている優秀な人材も見いだされて情報共有が進むのではないでしょうか。優秀な医師が、地域の一開業医として生涯過ごすというのでは、もったいないですね。

また企業と組むことで、医療現場の気付きをもとに既存の技術を転用した新しいテクノロジーデバイスをつくるのも、楽しそうだと感じています。

-- さらにネットワークが広がって、職業分野の枠を超えた情報交換も活発化しそうですね。日本が今後、年を取っても安心して生きていける社会になってほしいです。

確かに日本の高齢化は急激に進んでおり、孤独死など課題は山積みで、防戦一方になりそうですが、何とかもがいて善戦したいと思っています。

完全に一人で生きていける人はいません。高齢の方も隣家の人とか、買い物に行くスーパーで会う人とか、必ず誰かと接していると思います。各都道府県には、高齢者サポートセンターや、医療・介護の連携センターなどが設置されています。日本は皆保険制度で全員が介護保険も使えますので、かなり高いレベルの仕組みがつくられているんです。そことつながりが持てれば、一人でどうしようもないという状況にはならないはずです。亡くなるまで安心して過ごせる環境は、遠くない未来に必ず達成できると考えています。

-- 在宅医療が普及することで将来の不安がなくなり、最期まで人生を大切に過ごせるという期待を持つことができました。本日はありがとうございました。

 

と   き:2023年7月26日

と こ ろ:京都市・よしき往診クリニック(リモートインタビュー)

 

 

 

The post 超高齢社会や有事に多くの患者を救う、在宅医療チームの志 first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>
/magazine/archives/7411/feed 0
世界一清潔な空港を保つ清掃に気持ちを込めて /magazine/archives/7268?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e4%25b8%2596%25e7%2595%258c%25e4%25b8%2580%25e6%25b8%2585%25e6%25bd%2594%25e3%2581%25aa%25e7%25a9%25ba%25e6%25b8%25af%25e3%2582%2592%25e4%25bf%259d%25e3%2581%25a4%25e6%25b8%2585%25e6%258e%2583%25e3%2581%25ab%25e6%25b0%2597%25e6%258c%2581%25e3%2581%25a1%25e3%2582%2592%25e8%25be%25bc%25e3%2582%2581%25e3%2581%25a6 /magazine/archives/7268#respond Thu, 14 Sep 2023 01:09:48 +0000 /magazine/?p=7268 写真=本間伸彦   「世界一清潔な空港ランキング」1位の東京国際空港(羽田空港)において、カリスマ清掃員と呼ばれる新津春子さん。中国から17歳で渡日し、言葉の壁がない清掃の仕事を始め、27歳の時に全国ビルクリー…

The post 世界一清潔な空港を保つ清掃に気持ちを込めて first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>

清掃員
新津 春子〈にいつ はるこ〉

Haruko Niitsu
1970年中国瀋陽生まれ。1987年に来日し清掃の仕事を始める。日本空港技術サービス株式会社(現・日本空港テクノ株式会社)入社後、国家資格「ビルクリーニング技能士」「清掃指導監督者」などの資格を取得。1997年、全国ビルクリーニング技能競技会で最年少優勝(当時)。著書に『清掃はやさしさ』『人生を動かす仕事の楽しみ方』など。
写真=本間伸彦

 

「世界一清潔な空港ランキング」1位の東京国際空港(羽田空港)において、カリスマ清掃員と呼ばれる新津春子さん。中国から17歳で渡日し、言葉の壁がない清掃の仕事を始め、27歳の時に全国ビルクリーニング技能競技会で優勝。現在は著書や講演会、YouTubeなどでも清掃の技術や知識を発信されています。

清掃の仕事を極めるプロ意識や、仕事に対する姿勢について、伺いました。

空港は国の玄関 リラックスできる空間に

-- 羽田空港は「世界一清潔な空港ランキング」で今年も1位になっています。8年連続だそうですね。

はい。2015年はその年に開港した仁川国際空港が1位でしたが、その年を除くとランキングが始まった2013年以降全て羽田空港が1位で、今年で10回目です。

このランキングは、いつ誰がどこをどのように審査しているのかが明かされていないんですが、空港で働く全員が、お客様の満足を意識して取り組んでいる結果だと思います。羽田空港では売店のスタッフや清掃員などさまざまな職種が横でつながっていて、顧客満足の視点から指摘し合う機会があり、新たな気付きを日々の業務に生かしています。

-- 異なる職種同士で切磋琢磨しているのですね。駅や港など交通機関の施設はいろいろありますが、空港が一番清潔な気がします。

空港はその国の玄関だといます。空港の様子でその国の印象も変わってしまいますよね。お客様をおもてなしするには、清潔でないとリラックスしていただけないんです。約500人の清掃員が自分の仕事に誇りを持ち、納得できるまできちんとやり遂げるという気持ちで仕事をしています。2015年に仁川空港にトップの座を譲ってしまった時は、みんなですごく悔しがりました。でも、これを機に清潔を保つことへの意識がさらに高まり、翌年は挽回することができたんですよ。

-- 素晴らしいチームワークなのですね。職場では、そのユニフォームをお召しなのですか。

はい。夏は少し暑いですが、上下がつながっているので、高所や狭い場所などを清掃するときにひっかかったりせず、安全です。業務用の強酸性や強アルカリ性といった強力な洗剤が肌にかかるのも防いでくれます。

-- 安全面からユニフォームが選ばれているのですね。強力な洗剤を使うなどプロならではの特殊な清掃方法はあるのですか。

例えば、ギトギトに油が固まっているような汚れは、一般家庭で使う普通の洗剤では取れません。業務用洗剤で漬け置きしたり、他の道具と組み合わせて使ったりして落とします。30年かけて、清掃技術の開発や改善を進めてきました。

-- プロ仕様の道具と長年培われたノウハウが掛け合わされて、清潔な空間が保たれているのですね。街中でも外国人旅行者が増えてきたと実感していますが、新型コロナウイルス感染症の影響で緊急事態宣言が出た時期などは、どうされていたのですか。

羽田空港は一日20万人が利用する空港ですが、コロナ禍では利用者が98%減少し、空港にほとんどお客様がいなくなってしまいました。そんななかでも空港を運営する費用や水道光熱費はかかりますし、私たち社員には普段通りお給料が出ていました。仕事が激減し在宅勤務をしていましたが、空港や会社のことが心配で居ても立ってもいられませんでした。

そこで、親会社の会長に直談判。テレビ出演や、お掃除のコツを配信するYouTubeのチャンネル、アイデア商品の開発、ハウスクリーニング事業などを試行錯誤しながら進め、徐々に売り上げを上げられるようになりました。日々の業務のなかで感じる「こんな道具があったらいいのに」という気付きをもとに、企業とコラボして清掃道具を開発しています。いい道具がないと仕事の能率が上がらないですからね。

-- 会長に直談判とは、思い切った行動に出られたのですね。

1997年に全国ビルクリーニング技能競技会で優勝した時、当時社長だった現会長から、いつでも執務室に直接入ってきてかまわないと言われたんです(笑)。私が清掃の仕事をしていて困っている点は、一般家庭で掃除をする方も困っていると思うんです。特にコロナ禍では外出制限はあり、家にいる時間が多くなりましたから、汚れがたまるのも早くなり、「家をきれいにしたい」と思う人が増えたのではないでしょうか。誰でも、清潔な空間で過ごすと、心が落ち着き、会話も増えます。逆に散らかった場所には、汚れやゴミがさらに増えていってしまいます。だから、家を清潔にしておくと、健康や家庭円満にもつながるんです。たくさんの人に、便利な道具を使って良い時間を過ごしてほしいと思っています。

 

仕事を通じた刺激が、生きている実感に

-- 新津さんは中国のご出身なのですね。

はい。祖父は日本人で、第2次世界大戦で中国に渡り、父は残留孤児となりました。父が中国人の母と結婚し、私は残留孤児2世として生まれました。私が子どもの頃の中国には、テレビも炊飯器も、洗濯機も冷蔵庫もありませんでした。日本と50年ぐらい差があったように思います。食べて生きていくためには、自ら行動を起こす必要がありました。子どもの時から自然に鶏の絞め方を学びましたよ。怖いとは言っていられなかったんです。近所の人たちとも協力し合って毎日暮らしていましたね。

-- 清掃のお仕事を始められたのはいつですか。

17歳の時に一家で日本に戻ったのですが、頼れる知人や親戚を見つけることができず、政府から受けられる生活保護も父が断ってしまいました。中国のお金は日本円に両替するととても少なく、すぐに底をついてしまい、仕事をする必要に迫られました。

町で電柱に貼ってあった清掃員募集のチラシを見つけて、言葉が通じなくてもできるし、体力には自信がありましたから、家族そろって清掃会社に飛び込み、ジェスチャーで「仕事がしたい」と伝えました。当時は人手不足だったこともあり、全員雇ってもらうことができたんです。最初は、他の人と一緒に自動車で一日に何カ所か回って定期清掃をしていました。

1988年4月、ご家族や知人と(前列右が新津さん)

-- 人の作業の仕方を見て覚えていかれたのですね。

そうなんです。見よう見まねで一生懸命に働いて、自分の力で得た食べ物はとてもおいしく感じました。家族みんなでパンの耳やキャベツの外側の葉で食いつなぐ生活でしたが、毎日楽しかったです。人間はまずご飯を食べないといけません。生きていくためにプライドは必要ないですね。両親からは、人に迷惑をかけないこと、自分の食べ物は自分で調達することを教わりました。そのために、手に職をつけて、食いを稼ぐにはどうしたらいいのか、真剣に考えるようになりました。

その後も、たくさんの会社で、さまざまな清掃の方法を学びました。職場ごとに方法が違うのに気付いて、清掃の基本や理論をしっかり学びたいと、職業訓練校にも通うことにしたんです。この頃、訓練校で講師をされていて後に上司となった恩師から勧められて、全国ビルクリーニング技能競技会に出場したんですよ。

-- 基本や理論をきちんと理解できている新津さんだからこそ全国で1位になれたのですね。

清掃の基本動作は、一つ一つに意味があるものなんですよ。羽田空港で仕事を始めた時は、建物や材質が特殊で、それに対応した清掃方法など覚えることが多くて大変でした。まだまだ勉強が足りていないと感じ、他の施設に勉強に行くなどしてさらに学びました。新しい作業は回数をこなして体に覚えさせました。この仕事は、知識をつけることはもちろん、体で覚えることも大切なんです。

-- アイデアや気付きでどんどん改善できる清掃というお仕事との出会いは、新津さんにとって運命的なものだったのですね。

そうですね。世の中では、自分の好きな仕事に就ける人は少ないですが、自分で動いて工夫すれば、どんな仕事も楽しくなると思います。仕事を楽しんで、自分に刺激を与えていくことは、生きていくうえで必要です。刺激がなければ、生きている感じがしないもの。自分から行動することで新たな人や体験との出会いが生まれたり、従来のものと新しいものとが組み合わさったりしてどんどん新しいアイデアが出てくると思います。

-- それが新しいサービスや商品の開発にもつながるんですね。

 

清掃の仕事を通して学んだ「気遣い」の精神

-- 新津さんが清掃の仕事を通じて学んだのはどんなことですか。

日本で学んだ、人や物への気遣いの精神は、すごくいいものですね。これは他の国にはないと思います。私は清掃をする対象を人間に例えてみるようにしています。例えば、机を拭くとき。普通は天板を拭けば終わりですが、人として考えると、表面が顔、裏面が体や足。顔を拭いてあげたら、「体や足は大丈夫かな」と見てあげたくなります。もし机がグラついていたら、次に使う人がけがをするかもしれませんよね。清掃員の役割ではないかもしれないけれど、これに気付いたのに何も報告しなかったら、私が心苦しいです。人と同じように、物の不調にも早く気付いてあげたい。そのように気持ちを込めると、仕上がりも変わってきます。

清掃の道具も使ったその日にきちんと手入れをすることが大切です。

-- そのような気遣いは、どのようにして身に付けられたのですか。

恩師から「心に余裕がなければ、いい清掃はできませんよ」と教わったのがきっかけです。それまでは、戦う相手は自分自身でしたので、自分のために仕事をしていましたが、使う人のことを考えて相手を思いやる気持ちで清掃することが体に染みついてから、次第に、お客様から「ありがとう」とか「ご苦労さま」と声をかけていただくことが増えてきました。

人や物だけでなく、自分に対しても、いたわりが必要です。ずっとフル回転で仕事をしていたら、疲れたり、体を痛めたりしますよね。若いうちは良くても、年を重ねると毎日全力で仕事をすることはできません。自分の体調が良い状態で初めて、相手のことを考えて気配りをすることができると思います。相手のできないことを助けてあげたり、自分にないものはまねしたり。こういう相互のやり取りがあるのが、とてもいいと思うんです。

-- 同僚にはどのように接していらっしゃるのですか。

私は日本に来た時に、言葉がわからず、相手に伝えたいことがあってもうまく話ができませんでした。そこでまず、自分からちょっと笑顔になって、用がなくてもあいさつをするようにしました。そうすると、相手が寄ってきてくれるんです。相手が何か大きな荷物を持っていたら、「すごいね、力持ちね」とか。まずは、ここから始めるといいと思います。

-- 後輩や部下とはどんな関係を築かれていますか。

人によって能力や体力、仕事への熱量はさまざまです。「もっとこうしたら」と私が口うるさく言っても、本人に気持ちがなければ行動に移しません。でも、実際に現場に出てわからないことや困ったことがあって、私のところに聞きにきた時に教えたことは、身に付くんです。後輩に指導する時など、責任を持つようになるタイミングも、一気に伸びるチャンスです。

-- 自主性や向上心があると、違ってくるのですね。

はい。新入社員にはもちろん基本的な仕事を教えますが、ある程度経験のある人には細かいことを逐一言いません。例えば、雨の日は湿度が高く、床のゴミやほこりを取ろうとしてもモップが重く、なかなか前に進まないんです。私はそんな時に使う道具があるんですが、自分の発想をもとに行動してもらえるように、最初はあえて黙っています。私たちは一人ひとり自分の考えを持っているので、普段と条件が違う時には自分で工夫することができると思うからです。

-- 状況を注意深く観察して、掃除の仕方を変えるのですね。

そうですね。私はハウスクリーニングも手掛けているのですが、花粉が大理石やじゅうたんについた時には、下手にこすったりすると色が落ちないのでそっと拭きます。結露の場合、力を込めて窓枠を拭くと水分とほこりが混ざっているものを押し込んでしまうので、最初の汚れは、窓に横幅があったら横から、高さがあるなら上から一方通行になるべく軽くさっと取る。その後、きれいに端まで拭けばいいんです。

自宅で焼肉をした時に一度、部屋中に紙を貼って、焼肉の油がどのくらい飛ぶか調べるという実験をしたことがあります。意外に広い範囲にまで油が飛び散ることがわかったんですよ。ほこりと混ざった油を落とすのに洗剤を使うとしたら、洗剤拭きをしてから、水拭き、から拭きで3回拭かないといけない。あまり油が飛んでいない所はお湯で拭いて、から拭きの2回で済むんです。満遍なくすべて拭くのは大変です。熟練してくると、このようなところに差が出てきます。ほかに、タバコの煙がどのぐらい流れていくかも実験しました。日頃から率先して経験を積み、最後まで仕事に責任を持つことが大切だと心掛けています。

-- 体力では若い人が勝っていても、知識や経験、これまでの積み重ねから得た判断力、細かいところまで行き届く注意力などによって、仕事の質を上げていけるということですね。

2023年8月、空港で

 

短時間できれいになる掃除のコツを伝えたい

-- 今後は、どんな活動をされていくのでしょうか。

現在は役職上、羽田空港の現場で働く機会は少なくなってしまいました。しかしハウスクリーニングの現場で清掃を続けていくことで、初心に戻ることができると思っています。

また、本を作ったり、企業とコラボして清掃道具を作ったり、講演会をしたりといった活動も、時代に合わせて工夫して続けていきたいですね。全国ビルメンテナンス協会と全国ハウスクリーニング協会の講師もしているので、教育にも力を入れていきます。

本は、清掃が苦手な人向け、掃除好きな人向け、子ども向けなど、さまざまな人に向けて執筆しています。私は日本に来てから、体にやさしい掃除を教えてもらって本当に助かりました。日本でも、掃除をきちんと人に教わったことのある人は少ないと思うので、ぜひ体に負担をかけない正しいやり方を知ってほしいんです。

-- 人によって、知りたい清掃の内容も違うのですね。

家族の人数や構成によっても汚れは違いますからね。自己流で手入れしていると、物を傷つけてしまうこともあります。忙しくても短時間できれいにできる掃除や、年配の方でも楽にできる掃除の方法なども、伝えていきたいです。

-- それはぜひ知りたいです。

100歳まで生きて、80歳まで仕事をするのが目標なんです。体が弱ってきたら、その経験を本にして、次の世代に伝えて。とにかく新しいことを日々経験していきたいですね。

-- 家に帰ったら掃除をしようと思います(笑)。本日はありがとうございました。

2018年12月、富山での講演会

 

と   き:2023年4月26日

と こ ろ:西新橋・当社東京支社にて

 

 

The post 世界一清潔な空港を保つ清掃に気持ちを込めて first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>
/magazine/archives/7268/feed 0
ジェンダー平等で誰もが自分らしくいられる社会へ /magazine/archives/7056?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2582%25b8%25e3%2582%25a7%25e3%2583%25b3%25e3%2583%2580%25e3%2583%25bc%25e5%25b9%25b3%25e7%25ad%2589%25e3%2581%25a7%25e8%25aa%25b0%25e3%2582%2582%25e3%2581%258c%25e8%2587%25aa%25e5%2588%2586%25e3%2582%2589%25e3%2581%2597%25e3%2581%258f%25e3%2581%2584%25e3%2582%2589%25e3%2582%258c%25e3%2582%258b%25e7%25a4%25be%25e4%25bc%259a /magazine/archives/7056#respond Wed, 12 Jul 2023 06:44:41 +0000 /magazine/?p=7056 写真=本間伸彦   オリンピック競泳選手として活躍後、国連児童基金(ユニセフ)職員として途上国の国際貢献活動を行い、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(東京2020大会)を迎えるにあたってはジェン…

The post ジェンダー平等で誰もが自分らしくいられる社会へ first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>

途上国教育専門家
一般社団法人SDGs in Sports代表
井本 直歩子〈いもと なおこ〉

Naoko Imoto
1976年生まれ。競泳選手として1996年アトランタオリンピック4×200mリレー4位入賞。米国留学を経て、現役引退後、英マンチェスター大大学院の貧困・紛争・復興コース修了。2003年より国際協力機構(JICA)、2007年より国連児童基金(ユニセフ)のスタッフとして世界各地の発展途上国で平和構築、教育支援に従事。2021年にユニセフを休職し、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会ジェンダー平等推進チームアドバイザーに就任。一般社団法人SDGs in Sports代表。モザンビーク在住。
写真=本間伸彦

 

オリンピック競泳選手として活躍後、国連児童基金(ユニセフ)職員として途上国の国際貢献活動を行い、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(東京2020大会)を迎えるにあたってはジェンダー平等推進チームのアドバイザーとして活動された、井本直歩子さん。

東京2020大会は、史上初めて、ジェンダーステレオタイプに真正面から取り組んだ大会となりました。多様な人々が自分らしく生きられる社会を実現するために、大切なことは何か、井本さんのお考えをお聞きしました。

オリンピック選手から途上国のために働くユニセフ職員へ

-- 発展途上国に関心を持ったのは、いつ頃ですか。

競泳選手時代です。私たち日本代表選手には、国際大会に出るたびに、日本オリンピック委員会(JOC)や水泳連盟、スポンサー企業などからたくさんの支給品があるんです。水着や帽子、ユニフォームにスーツにジャージに靴と、スーツケースいっぱいに、大会ごとにいただいていました。片や、途上国の選手は満足にゴーグルもつけずに出場している。「こんなに恵まれている自分と、そうでない選手が、同じスタートラインで競っていいんだろうか」と、物質的な不平等に罪悪感を持ちました。

-- スタートラインに立つ前に、そこまでの差があるのですね。

選手村の食堂に行くと、途上国の選手がお菓子をたくさん食べていました。いつもどんなものを食べているんだろう、私たちは体調や栄養に気を付けて食べているけれど、そういった知識を得る機会もなかったのかな、と思いました。内戦中のボスニア・ヘルツェゴビナの選手が、地雷を避けるために場所を移してトレーニングを行い出場したという話を聞く機会がありましたし、高校3年生だった1994年にはルワンダ大虐殺が起こり、約80万人が素手で殺害されるという新聞記事を読んでいました。私がアジア大会に向けてトレーニングをしている時に、地球の裏側でこんなことが起こっている。大きな矛盾を感じ、いても立ってもいられない気持ちになりました。

-- 国際大会を通して、日本と途上国の格差に気付かれたんですね。

はい。大学受験を控えて将来のことを考えるなかで、途上国の人のために働きたい、国連で紛争予防に関わりたいと思うようになりました。当時水泳の選手生命は、10代がピークといわれていたので、引退後にどんな仕事をしたいか、自然と考えていたんです。

-- アスリートの方は、引退した後もスポーツに関わる方が多いように思っていました。

私はすごく欲張りで、何でもかんでも手に入れたくなってしまうんです(笑)。水泳では、オリンピックに絶対出るぞと思ってがんばってきましたが、同時にその後の人生のことも考えて選択肢を持っておきたいと思いました。学ぶのは楽しかったです。

-- 1996年、アトランタ・オリンピック出場を果たし、女子800メートルのリレーで4位に入賞されていますね。

アトランタは私にとって最初で最後の大会になると思って臨んだものの、個人種目では予選落ち。帰りの飛行機で号泣していたところ、冬夏合わせて7回のオリンピックに出られた橋本聖子さんが「満足していないなら、1回であきらめちゃいけない」と声をかけてくださいました。現役続行を決意し、心機一転してアメリカに留学したのですが、アメリカの大学では勉強もきちんとしないと大会に出られないんです。学業と競技の両立は必然でした。残念ながら2度目のオリンピック出場はかないませんでしたが、1年1年練習を積み重ねて、現役最後のレースとなった代表選考会では全種目で自己ベストを更新できたので、未練はありませんでした。

-- 引退後は、国際関係の仕事という夢へ向かわれたのですね。

イギリスの大学院の貧困・紛争・復興コースで学び、その後、国際協力機構(JICA)でガーナ、シエラレオネ、ケニア、ルワンダに赴いて現場経験を積みました。30歳の時、国連児童基金(ユニセフ)職員の試験に合格することができました。

-- ユニセフ職員として、どんなお仕事をされたのでしょうか。

最初に派遣されたのは、スリランカの教育部門。教育は子どもの成長にも平和構築にも欠かせませんから、この分野を自分の専門にできたのはラッキーでした。JICA時代にはできなかった紛争の第一線で活動をすることができてうれしかったです。

当時はスリランカ北部で紛争があり、人々が国軍に追いやられて、10万人規模の国内避難民のキャンプができていたんです。そのなかで仮設教室を作って、毎日飛び回っていました。心のケアの一環として、プログラムにスポーツを盛り込んだこともありましたよ。ボールを追いかけてだんだんと笑顔になっていく子どもたちを見て、スポーツの底力を感じましたね。

-- 過酷な地域で危ない目に遭われませんでしたか。

2010年のハイチの大地震後に現地で復興支援に携わった時はテント生活でしたが、普段はユニセフが職員の住環境やセキュリティを整備して職員を守ってくれます。危険なことはほとんどなく、本当に毎日、楽しいんですよ。ほかにフィリピン、マリ、ギリシャでも活動しました。

 

報道のジェンダー不平等をなくしスポーツ・競技自体の魅力を伝えたい

-- ユニセフ時代を経て、東京2020組織委員会ジェンダー平等推進チームのアドバイザーに就任されたんですね。

ユニセフに入って14年ほど経ち、ちょうど契約が切れたタイミングで休職して、自分の家族やパートナーと過ごす時間を取ったり、一度立ち止まってみたりしたいなと。2021年1月に帰国すると、テレビで組織委員会の森喜朗会長の女性蔑視発言問題を知りました。

私にも取材が来てしばらく騒がれていたんですが、そのうち「年配の方だから、仕方ない」という感じで、だんだん落ち着いてきて。

でも、私は「これで終わらせてはダメだ」と思ったんです。声を上げ続けて、現状を変えるために行動しなければいけない、スポーツ界や国際機関に長く所属してきた経験を生かせればと思いました。ちょうど組織委員会にジェンダー平等推進チームが発足したと聞き、リーダーの小谷実可子さんにつなげてもらい、お手伝いさせてくださいと言いました。

-- チーム発足は、国内外での批判を受けて、組織として改善の姿勢を見せるためということですね。

そうです。大会までの短期間に実行する施策と、継続的に行っていく施策を整理して発表することになりましたが、一般の方に伝わるような変化も起こしたいと思い、報道に関するジェンダーステレオタイプを取り除くことに着手しました。すでに国際オリンピック委員会(IOC)がメディア向けのガイドラインを作っていましたが、日本ならではの問題も取り上げる必要があると思ったんです。

-- IOCのガイドラインについて教えてください。

スポーツの報道において、男らしさや女らしさの偏見をなくし、ルッキズム偏重報道にも配慮し、スポーツをありのまま伝えることにより、スポーツ界のジェンダー差別をなくしていくためのガイドラインです。

日本のスポーツ界では「美女アスリート」「イケメンアスリート」など、顔形のいい選手が競技の成績のいい選手よりも注目を集めることがありますよね。また、スポーツ雑誌では、男性アスリートはトレーニング風景や試合のショットが取り上げられるのに、女性アスリートはかわいらしい私服を着てプライベートの話を聞かれがちなんですよ。「ママさんアスリート」などもそうですが、競技の本質とずれた話題が多く取り上げられているんです。

-- 報道の仕方によっては、古い価値観を再生産してしまうことになりかねないですね。

そうなんです。選手自身も、そのような取り上げ方を望んでいないかもしれません。読者や視聴者も、選手のプライベートより競技のことを知りたいかもしれない。

女子スポーツにとっても、顔形のいい選手ばかり取り上げられれば、スポーツの本質の魅力を狭めます。女子のスポーツを実際に観戦すると、迫力があってとてもかっこいいんです。ありのままのスポーツの魅力がメディアを通して伝われば、「女らしさ」の偏見が弱まり、多様なかっこいい女性のイメージが定着すると期待しています。

-- 選手の容姿やプライベートの話をきっかけに競技も注目される、ということもあるでしょうが、それでは競技の本質的な魅力は伝わらないということですね。

はい。選手の容姿やプライベートは話題にはなりますが、ただの一過性のブームにしかなりません。また、選手たちも「競技が注目されるためだから」と言われると、嫌な取り上げ方をされても我慢してしまうんです。スポーツ界の無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)は根深く、メディアやスポーツ関係者、視聴者やファンなど、みんなが一緒に考え、対話しながら動かないと解決しない問題だと強く感じました。

-- 海外メディアでは、アスリートをどのように取り上げているのですか。

海外で、アスリートのプライベートを報じているのはゴシップ誌くらいです。もちろん外見よりも実力に基づいて報じられるほか、IOCのガイドラインにのっとって、チーム競技ではスター選手ばかりではなく、全ての選手をバランスよく取り上げるように、配慮されているように感じます。

-- 日本とはずいぶん違いますね。

そうですね。2022年に、南ア共和国の放送局のサッカーW杯中継を見ていたら、専門家の女性が解説者として出ていて、とてもわかりやすく解説していました。考えてみれば、男子サッカーを男性だけが解説しなければならない理由はないですもんね。その大会では日本人女性が審判をしましたし、ドイツ対コスタリカ戦はサッカーW杯史上初めて、ピッチ上の審判が全員女性でした。経験が長いメンバーがそろい、とてもいい采配だったと思います。スポーツには見ている人の固定観念を打ち破る力があり、注目が集まる国際的な大会を利用して、固定観念を打ち消す機会にしていく力があることを考えさせられました。

-- 日本でスポーツ番組に登場する女性は、アシスタントの役割であることが多いと感じます。解説や実況がうまい人も、きっといるはずですよね。

男子サッカーの試合をなでしこジャパンの選手が解説する番組もあっていいと思います。「女性だから」「男性だから」という理由でできないことは、限られています。メディアにはそのようなステレオタイプを崩してもらいたいと思っているんです。

ハイチ大地震後にユニセフの支援で建てた仮設教室にて

 

使い慣れた言葉にもステレオタイプがひそむ

-- 多様性が尊重される社会に向けて、私たちはどのようなことに気を付けるべきでしょうか。

まずは自分のなかで「おかしいな」と思うことを口に出すことだと思います。例えば結婚している女性なら、配偶者のことを「主人」と言うのをやめるとか。「嫁」「家内」も家父長制的で、今の時代にはそぐわない。

-- 自分の配偶者を「主人」「嫁」と呼ぶことはやめられるものの、他人の配偶者のことを「ご主人」「奥様」以外の呼び方をするのが、なかなか難かしいんです。「パートナー」「お連れ合い」という言葉もありますが、世間に浸透しているとはいい難い。使い慣れた言葉にも、実はおかしなところがあるから、こう変えていきませんか、と提案していくことも大事ですね。

その通りです。子どもに対しても「男の子なんだから泣くな」とか「行儀よくしないと、お嫁にいけなくなるよ」など、よく言われますよね。「そういう言葉は最近、使わないんですよ」と、年上の方や目上の方にもきちんとお話しする勇気を出せるかどうかは悩むところです。そういう発言をした人がいれば、後で二人になったときにそっと伝えるとか。「『細かいことにうるさい人だ』と思われたくない」という気持ちもわかりますし、ものすごく社会的地位の高い方に伝えるのは勇気がいりますが、今の状態を後世に引き継いではいけないと変革の側に立つ勇気が必要ではないでしょうか。

-- そうですね。逆に、自分が指摘される立場になることもあるかもしれません。

そうなんです。私も勉強しているつもりですが、まだまだ足りていないですし、自分が無意識のうちに持っているステレオタイプにふと気付くことが、今でもよくあります。でも、それは決して恥ずかしいことではないと思います。家庭でも、ご家族と時代錯誤な言葉遣いやステレオタイプな物の見方について話すことは、とても大きなことへの小さな一歩だと思います。間違っても直せばいい、失敗したら反省すればいいという社会にしていきたいですね。

-- 指摘されたら、感謝の気持ちで受け入れることが大切ですね。一方で「あれもこれも差別だと言われたら、何も言えなくなってしまう」と感じる人もいるのでは。

確かに「うかつにものを言えない」という恐怖を取り除くことは大切です。ダイバーシティは、その人らしさを大事にすることが原点。受け取った側が嫌だと思うかどうかがハラスメントの境目。同じ発言でも、当事者どうしの関係性によって感じ方は違うんです。女だから男だからという固定観念で判断するのではなくて、その人らしさを見る。それが自分の固定観念を崩すことにもつながり、誰もが自分らしくいられるような社会につながると思います。

ジェンダーの問題は女性だけの問題ではなく、男性にも大きく影響しています。女性は「料理や家事が得意」というステレオタイプに苦しめられてきましたが、男性も「稼がなければ」「家族を守らなければ」などのステレオタイプを押し付けられて、苦しんできた人もいると思うんです。

一般社団法人SDGs in Sports主催の「女性リーダーサポートネットワーク
Think Together, Change Together」の活動(画面最上段左端が井本さん)

 

未来志向の活発な議論で前向きな社会に

-- 井本さんは今後どのような活動をしていかれるのでしょうか。

私が今、力を入れているのがガバナンスのなかのジェンダー平等です。どんな組織でも、30%ほどの多様性がないと、組織が硬直化してしまうといわれています。とりわけ、日本はこれまで、男性中心の社会構造で、年功序列で一部の人が意思決定をしていたり、その判断に誰も意見が言えなかったりという状況です。それを打ち破るためには、例えば女性などの異質な人が30%以上必要です。

組織内の議論を活発化させて、より良い決断をどんどんしていくためには、トップが多様でなければいけない。「女性がいると会議が長くなる」というのは、今まで男性も含めてみんな発言したかったけれど、我慢していたから会議が短かったということでしょう。

-- 「それ、おかしくないですか」と声を上げる人が一人二人ではなく、30%になれば、変わってくるということですね。

特に、若い人や女性はなかなか自由に発言しにくいと思いますが、企業においても発言できる文化をつくることが大切ですね。もっと未来志向で将来を見据えた議論をして、トップ層のダイバーシティに取り組めば、政治や企業など、日本の社会の決断がどんどん変わっていくと思います。ちょっとずつ変わっていけば10年後の日本はたぶん相当違っているでしょう。

-- 女性やマイノリティだけのためではなくて、みんなが生きやすくなる社会になってほしいです。本日は、ありがとうございました。

 

と   き:2023年1月11日

と こ ろ:西新橋・当社東京支社にて

 

 

The post ジェンダー平等で誰もが自分らしくいられる社会へ first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>
/magazine/archives/7056/feed 0
空気のふるまいを捉え、登山者を守る山岳気象予報士 /magazine/archives/6919?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e7%25a9%25ba%25e6%25b0%2597%25e3%2581%25ae%25e3%2581%25b5%25e3%2582%258b%25e3%2581%25be%25e3%2581%2584%25e3%2582%2592%25e6%258d%2589%25e3%2581%2588%25e3%2580%2581%25e7%2599%25bb%25e5%25b1%25b1%25e8%2580%2585%25e3%2582%2592%25e5%25ae%2588%25e3%2582%258b%25e5%25b1%25b1%25e5%25b2%25b3%25e6%25b0%2597%25e8%25b1%25a1%25e4%25ba%2588 /magazine/archives/6919#respond Mon, 05 Jun 2023 04:49:34 +0000 /magazine/?p=6919 写真=本間伸彦   山の天気予報を専門に行う、日本で最初の山岳気象予報士、猪熊隆之さん。山や天候の知識を踏まえ、一般の登山者はもとより人気テレビ番組で芸能人や撮影クルーの登山をサポートするなど、山岳気象の第一人…

The post 空気のふるまいを捉え、登山者を守る山岳気象予報士 first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>

山岳気象予報士
猪熊 隆之〈いのくま たかゆき〉

Takayuki Inokuma
1970年、新潟県出身。山岳気象専門会社ヤマテン代表取締役。中央大学山岳部前監督。国立登山研修所専門調査委員および講師。テレビや映画の登山撮影隊、山岳交通機関、スキー場、旅行会社、山小屋などへの情報提供多数。著書に『山岳気象大全』『山の天気にだまされるな!』『山岳気象予報士で恩返し』など。
写真=本間伸彦

 

山の天気予報を専門に行う、日本で最初の山岳気象予報士、猪熊隆之さん。山や天候の知識を踏まえ、一般の登山者はもとより人気テレビ番組で芸能人や撮影クルーの登山をサポートするなど、山岳気象の第一人者として活動されています。登山者の命を守る山岳気象予報の難しさややりがい、登山の魅力などについて、お聞きしました。

難易度の高い山岳気象予報

-- 山岳気象予報士とはどんなお仕事ですか?

天気予報は、空気がどのように変化していくかを予想して出します。私たちはこれを「空気のふるまい」と言っています。空気は基本的には決まった法則で変化し、高い場所と低い場所では空気の状態が異なります。ですから、実際の現場の地形を計算式に当てはめて、高い場所と低い場所の間がどうなっているか、天気図やコンピューターの計算結果なども参考にしながら天気を予報しています。

-- 山の天気は変わりやすいと言われますね。山の天気予報の難しさはどんなところにあるのでしょうか。

今の天気予報はほぼ自動化されていて、コンピューターが計算したデータを天気に変換しています。しかし、山ではどうしても精度が下がってしまいます。

コンピューターは、広い空間を20キロ単位などに分割してそのマス目ごとに計算しています。しかし、山や谷が多い複雑な地形では、マス目の形が実際の地形と大きく変わってしまいます。山では、地形の凹凸によって雲ができたりできなかったり、湿った空気が入ってきたり来なかったりと条件が大きく変わるほか、山ごとの癖もあり、予測が難しいんです。

-- 小学校の社会科で、大陸から日本海側に吹く冬の風が山に当たって雪を降らせ、太平洋側には湿り気がない風が下りてくると習ったのを思い出します。それが実際の地形の上で、複雑に組み合わさっているのですね。

その通りです。ある登山隊にヒマラヤの天気予報を依頼されたとき、欧米の気象会社は3日間大雪と予報を出していたんですが、私は「7500メートルより上は晴れていて、風も弱い」と予想。登山隊が私の予報を信じて登山を決行してくれたところ、見事に晴れ、とても感謝されたんです。山岳気象予報士として認めていただけるようになったのはその頃からですね。

欧米の会社はコンピューターで計算していたのですが、私は学生時代から登山を長く経験しており、山の上の方と下の方で天気が違うと知っていたことが大きかったと思います。

-- 山を理解したうえで、複数の情報を組み上げて予報するのですね。

はい。でも、天気については、まだ人間にわかっていないことがたくさんあります。観測データの精度は上がっていますが、コンピューターが使っている計算式は人間が勝手に作り上げたものなので、式が間違っていれば結果にずれが生じます。2日先の天気予報ならあまり大きな影響はありませんが、週間予報は外れることが多いでしょう。まだまだ天気予報は完璧ではありません。

-- そうなんですか。観測データはどんなふうに取られているのですか。

その国の気象機関が雨量計や気温計を置いて取っていることが多いです。日本では自治体が観測していることもあり、これだけ国を挙げて密に行っている国はなかなかないですよ。台風や大雪、地震など気象災害が多いからでしょうね。今は直接観測機器を置かずに、衛星画像などで間接的に観測する技術も向上しています。

2003年5月、エベレスト西稜上(7,600m付近)

 

五感で自然を感じ天気を予想する

-- 「山の天気予報」というWebサイトや、スマートフォン用のアプリで予報を提供されているそうですね。

はい。Webやアプリは一般の登山者の方々によくご利用いただいています。他にもさまざまなお客様と直接契約して、天候面からアドバイスを行っています。

例えば、ツアー登山を催行している旅行会社様から、悪天候の際にツアーを中止するべきか、ルート変更は可能かなどの相談を受けたり、山岳交通機関や除雪業者の方に積雪予想を送ったり。人工雪を使うスキー場にも喜ばれています。気温が高くなったり雨が降ったりすると、すぐに人工雪が溶けてしまうので、人工雪を作るのにいいタイミングをお知らせしています。

一番難しいのは、テレビや映画の撮影隊に向けた予報ですね。タレントやスタッフの皆さんが安全に活動できるだけでなく、きれいな画を撮れるかどうかが大事です。特に映画は分刻みで撮影をするので、監督さんから電話で「今降っている雨、本当に30分後にやみますか」と聞かれることもありますよ。

-- 現地に行けない場合が多いと思いますが、求められる正確な予報を、どのように出しているのでしょうか。

現場から送ってもらう写真や動画がとても重要です。空気は目に見えないけれど、雲は空気のふるまいを教えてくれます。

海外で難しい山に登る場合は、頂上を目指す前に、高所に体を慣らしたり、ルートをスタッフが作ったりする期間がありますから、その間に毎日現地の予報を出して、次の日に実際の天候と予報とのズレを見て、ずれた理由を考えて、徐々に精度を上げていきます。いざ登り始めたら、夜中にも動きがあるので、24時間体制で対応することもあります。

-- 大変なお仕事です。同じ場所の過去の観測データなども、参考にされるのでしょうか。

過去のデータも確認しますが、なかなかその通りにはなりません。最近は温暖化などの影響による気候変動も激しく、気温も上がり、水蒸気の量も増えています。今まで崩れなかったパターンで崩れたり、今までにない天気図や気圧配置が現れたりすることもあるので、経験を当てにしすぎないことが重要です。

-- なるほど。山がお好きでしたら、予報しているとその山に行きたくなるのでしょうか。

なります(笑)。特にアフリカの山はすごく予報が難しいんですよ。観測データも少ないし、赤道の近くは一年中、天気があまり変わらないんです。キリマンジャロは特にテレビのロケが多く、天気予報を頼まれることが多いので、この地域の天気のことをよく知りたいと思い、2019年に行ってみました。

キリマンジャロは砂漠の非常に乾いた空気と熱帯雨林のすごく湿った空気がぶつかるところなんですよ。山の上に立って地形を見渡すと、そのぶつかり方が立体的に理解できました。雲の様子を見ると、遠くから水蒸気が入ってくるというようなことがわかるんです。

-- 現地に立たなければ、わからない肌感覚のようなものがあるのですね。

はい。空気のジトッとした感じや乾いた感じなど、直接肌で感じられて、すごく面白かったです。20年前の若い頃、世界一高いエベレストを世界一難しいルートから登りたいと挑戦したことがありますが、当時は実力が足りず、途中で断念しました。いつか世界中の人が憧れる山のてっぺんで景色を眺めて、雲の気持ちになってみたいですね。

もともと、天気は大好きだったんですが、気象予報士になってから、より空や雲を見るようになり、山登りも今までと違う意味を持つようになりました。雲や空や風を感じながら「なんでだろう」と考えるのがすごく好きなんです。「あの雲はなぜあそこにできているんだろう」「なぜあの形なんだろう」って。予報の時は雲や空気や風の気持ちになることもすごく大切なんです。

-- それはどんな感じなのでしょうか?

観測データや天気図、地形などを見ながら「自分が雲だったらどういうふうに動いていくかな」と考えるんです。この状況なら、雲はやる気を出してどんどん成長するだろうな、こんなふうに進んでここまで上昇するだろうなという感じでイメージしていきます。空気なら、温かい空気は水蒸気がたくさん含まれますが、冷たいとあまり含めません。だから、空気が上昇して冷えて胃袋が小さくなって、水蒸気でお腹いっぱいになって、たくさん雲ができちゃうなあという具合。法則通りにいかないのが、自然であり山ですから、現場の雲や風を観察し、少しでも雲や風の気持ちに近づこうと勉強しています。

 

山によって育まれた人との強い絆

-- 子ども時代はどんなふうに過ごされましたか。

地図や天気図を見るのが好きで、高校の時は気象オタクでした。子どもの頃は裏山の崖に登って遊ぶことが多く、大学では山岳部に入り、本格的に山に登り始めました。

最初はトレーニングがきつくて荷物も重くて、逃げ出したかったんですが、日々乗り越えていくことで自信がついたと思います。自分の限界に挑戦してみたいと、厳しい山にどんどん挑戦しました。落ちたらアウトというような場所をギリギリで乗り越えていくと、すごい充実感があります。下山すると生きている実感があって、食事をしても人と話してもすごく楽しいんですよ。

-- 危険なこともある登山ですが、大きな魅力があるのですね。

山に行くと、いろいろな悩みやストレスが飛んでいくし、そういう人たちが集まるから会話も弾みます。山登りをしている人たちは、すれ違うと必ず挨拶するんですよ。

食べ物や、ビール、コーヒーなども、山ではすごくおいしく感じます。非常にカロリーを消費するからかもしれません。他のスポーツではフルマラソンでも3、4時間ほどですが、登山は荷物を担いで一日歩き続けますからね。

-- いろいろな山を経験されている猪熊さんが気象予報士を目指されたのは、どのようなきっかけからでしょうか。

新聞に載るほどの登山中の大ケガが原因で慢性骨髄炎になったんです。しばらく山に登れなくなり、症状のコントロールが難しいため会社勤めもできないので、技術を磨いて自分にしかできない仕事をしようと考えました。

他の人に負けないものがあるとしたら天気だと考え、高校の時に諦めた気象予報士を再び目指すことに。その時に通った学校の先生が海専門の予報会社をやっていて、山の気象予報をしたいと相談させていただきました。

気象予報士になってから、ビジネススクールなどで講師を務めることも増えました。受講生の質問に答えるために数学や物理の原理原則を学び直したことが、気象予報にも役立っています。

-- 大きなケガや病気をされても、やはり山が好きでいらっしゃるのですね。

山を恨む気持ちは全くないですね。山に出会って良かった、自分を変えることができたという思いです。慢性骨髄炎を発症して5年後に、名医による手術を受けることができました。「杖なしで歩けるようになりたい、走れるようになりたい」との思いでリハビリを重ね、半年後に登山ガイドの友人の誘いで出かけた雪の上高地は、まるで妖精たちが住むおとぎの国のようでした。自力で歩いて見られた素晴らしい光景に、再生できた喜びを実感し、神々しいまでに美しい穂高連峰を前に、ただ立ち尽くすしかありませんでした。

-- 新たな山の魅力も感じられたのですね。OBとして、大学の山岳部のサポートも続けていらっしゃると伺いました。

はい。山岳部は特にOBとのつながりが強いです。自然は不確実な要素が多いので、登山には経験が必要です。わずか数年しか登山を経験していない大学生には、OBの手助けが不可欠だと思います。

私はこれまで、山で亡くなった若者の親御さんや婚約者の方などの悲痛な姿を数多く見てきました。誰も死んでほしくないですし、特に若い人が亡くなるのはとてもつらいことです。後輩が山で事故を起こせば、大勢のOBが仕事を休んででも集まります。同じ釜の飯を食った家族のような絆があるんですよ。

学生の頃は、厳しいOBをうるさく感じたこともありましたが、卒業してから、そのありがたみがわかってきました。親にも、相当心配をかけてきましたね。山岳部の監督になってから、親の気持ちがわかるようになったと思います。

気象庁がアメダスの観測データをWeb上で公開していなかった高校時代、
方眼紙に自作したアメダス

 

山ならではの空の魅力を伝えたい

-- 今後はどのような活動をしていかれるのでしょうか。

これからも気象予報を通して山の事故を減らしたいです。現在、登山ツアーの遭難はかなり減ったので、次は個人の遭難事故を減らすために活動したいと思っています。山岳気象の講習会のほか、山小屋でその場に居合わせた人に対して気象講座をしたこともありましたが、私一人で話をするのには限界があります。

そこで「空の百名山プロジェクト」を立ち上げました。空を見て楽しい山や景色の美しい山を選定し、雲や空の見方を伝えて、山の楽しさに加えていただきたいという思いで、新聞に連載記事を書いています。

また、登山者向けに全国各地の山頂で行う講座「山頂で観天望気」を私の会社で実施し、雲や空の楽しみ方、天気の予想の仕方などをお伝えしています。足を運んでくださった方やその場にいた方と、コミュニケーションを取るのがとても楽しく、この活動が広がっていけばいいなと思っています。

-- これから山に登ってみたいという方に、アドバイスをいただけますか。

麓から見える景色と、一歩山に登ったときの景色は全然違います。自分が動かないと景色は変わらないのは、人生も同じですね。少し進み始めると、ちょっと見えてくるものがあって、もう少し進むと、新しい可能性が見えてきます。登山も、実際にやってみて初めて良さがわかるので、ぜひ飛び込んでみてほしいですね。

夏は暑くてヒルなども多いので、初心者の方には、あまり距離が長くなくて高低差も少ないコースがおすすめです。ある程度高いところまで乗り物を使って登れる山で、きれいな景色や空気の良さ、涼しさを味わうのがいいですね。長野県の木曽駒ケ岳の千畳敷、霧ケ峰の車山、山梨寄りにある入笠山などは、最高の景色が見られますよ。

-- 自分の足で登ってみたくなったら、次は歩く距離が少し長い山にチャレンジすればいいのですね。山の天気についてはどんなことを知っておいたらいいでしょうか。

日本では、夏を除いて西から東に天気が移り変わることが多いので、西の空を見るのが基本です。UFOみたいな形のレンズ雲が出ると風が強くなって、天気が崩れることが多いので注意が必要です。山に笠雲がかかっているときも天気が悪くなります。笠雲がどんどん成長して二重三重になったら、危険ですので早めに下山するか、出発を取りやめてくださいね。

-- ありがとうございました。私も夏山にチャレンジしてみたくなりました。

2022年7月、コスミック稜(アルプス・モンブラン山群)

 

と   き:2022年12月21日

と こ ろ:西新橋・当社東京支社にて

 

 

The post 空気のふるまいを捉え、登山者を守る山岳気象予報士 first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>
/magazine/archives/6919/feed 0
経営の目的は顧客に価値を提供し、長期利益を生み出すこと /magazine/archives/6757?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e7%25b5%258c%25e5%2596%25b6%25e3%2581%25ae%25e7%259b%25ae%25e7%259a%2584%25e3%2581%25af%25e9%25a1%25a7%25e5%25ae%25a2%25e3%2581%25ab%25e4%25be%25a1%25e5%2580%25a4%25e3%2582%2592%25e6%258f%2590%25e4%25be%259b%25e3%2581%2597%25e3%2580%2581%25e9%2595%25b7%25e6%259c%259f%25e5%2588%25a9%25e7%259b%258a%25e3%2582%2592%25e7%2594%259f /magazine/archives/6757#respond Thu, 16 Mar 2023 05:20:31 +0000 /magazine/?p=6757 写真=本間伸彦   コロナ禍による経済の停滞、ウクライナ情勢の影響による物価の高騰など、企業経営にとっては厳しい時代。これから企業はどのような方向にかじを切り、働く従業員はどのようなことを意識すればいいのでしょ…

The post 経営の目的は顧客に価値を提供し、長期利益を生み出すこと first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>

経営学者
楠木 建〈くすのき けん〉

Ken Kusunoki
1964年、東京都出身。1989年一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同大学大学院経営管理研究科教授、同大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授などを経て、2010年から一橋ビジネススクール教授。専門は競争戦略。著書に『ストーリーとしての競争戦略』『すべては「好き嫌い」から始まる』『絶対悲観主義』などがある。
写真=本間伸彦

 

コロナ禍による経済の停滞、ウクライナ情勢の影響による物価の高騰など、企業経営にとっては厳しい時代。これから企業はどのような方向にかじを切り、働く従業員はどのようなことを意識すればいいのでしょうか。たくさんの事例を基に長く企業の競争戦略を研究してこられた経営学者の楠木建さんに伺いました。

客観的な視点から競争戦略の理論を導き出す

-- 楠木さんのご専門の、経営学とはどのような学問でしょうか。

経営に関わることは、全て経営学に含まれます。私の専門はそのなかの競争戦略という分野です。世の中ではたくさんの企業が競争をしていますが、そのなかで儲かる企業と儲からない企業に分かれるのはなぜか、それを説明する理論を考えるのが私の仕事です。

-- 経営者にとって非常に価値があるご研究だと思いますし、一般の消費者としても気になるところです。

競争戦略のポイントは、ビジネスに法則はないということです。例えば自然科学には法則があり、相対性理論における有名な式E=mc2はどんな時に誰が観察しても変わらない真理ですよね。でも、経営は人によるので「こうやったら必ずうまくいく」という法則はありません。僕が目指しているのは、実際の経営のなかで、経営者がさまざまな決断をする時に「こう考えてみたらいいのでは」「優れた競争戦略とは、こういうものでは」と、そのロジックを提供することです。

経営者は毎日が真剣勝負で忙しいですから、企業が儲かる理論をゆっくり考えている時間はないと思います。僕は自分でビジネスをしたことはないのですが、岡目八目という言葉もあるとおり、客観的に見るからこそわかることもあります。

-- どのような方々が楠木さんから競争戦略を学んでいるのでしょうか。

一橋ビジネススクール国際企業戦略専攻の学生は90%が外国人です。20〜30代を中心に、実務経験3年以上の応募条件を満たし、日本での仕事に関心を持つ学生が、20カ国以上から集まっています。

-- 海外の方は、日本のビジネスのどんなところに関心を持っているのでしょうか。

もともと日本の文化が好きだという人もいますし、日本にビジネスチャンスがあると感じている人もたくさんいますよ。日本人には、日本は経済成長が止まっていると思っている人が多いですが、成長は、国や地域の経済的な調子を示す物差しのうちの一つでしかありません。ほかの要素、例えば公平性で見ると、日本は先進国のなかでも富の配分が最も公平な国です。成長が著しくても格差の大きな国は、殺人事件や就役している人の割合が多く、社会問題も多発する傾向にあります。

-- 成長以外にも評価の指標があるのですね。

はい。成長率としてよく話題になるGDPは、もともとアメリカで開発されたもので、1年間に作られた物やサービスの総量を示すものです。蓄積されたストック(富)は、また全く別の概念です。一人当たりや家庭当たりのストックで見ると、日本はアメリカよりもはるかに大きいですよ。また、日本は「食事がおいしい」「清潔」「秩序がある」「時間や約束を守る」といった良いイメージも強いです。人間には遠近歪曲という認知バイアスがあり、近いものほどあらが目立って、遠いものほど良く見えますから、日本にいる私たちは日本の良い点に気付きにくいのかもしれませんね。

-- 競争戦略をテーマに選んだのは、なぜですか。

特に使命感があったわけではなく、まあ、成り行きです(笑)。チームで動くのが苦手なので、組織に所属するのではなく、自分で時間や資源の配分を決めて、一人で直接お客様の前に出ていく仕事がしたいなという思いはありました。また、昔から考え事が好きで、いろいろな本を読んでいくなかで、物事の理論を説明することが面白いと感じるようになりました。競争戦略というテーマを決めたのは30代半ばでしたから、随分遅かったと思います。

 

道徳にかなう商売が最も長期的に儲かる

-- 最近では経済が世界的に落ち込んでいますが、企業間の競争は激しくなっているのでしょうか。

それは誤解です。ビジネスの競争は、スポーツでいうようなレースとは違うんですよ。レースでは、金メダルが一人決まって、その次に2位、3位と一次元上に優劣が並び、誰が誰に勝ったか負けたか、誰が誰より優れているか、常にはっきりしています。このような場合は相手を負かすことが目的になります。

しかし、ビジネスの場合はそうではありません。競争戦略の本質は、競争相手との違いをつくること。例えばファッションの業界で、シンプルで万人受けする服を売るA社と、ファストファッションを手がけるB社は、どちらも勝者になり得るんです。A社の売り上げが増えることは、B社の売り上げが減ることを意味していません。同じ業界でも違いをつくり、違うポジションを取っていますから、A社もB社もお互いを打ち負かさなくていいんです。顧客からすれば、ファッションの選択肢が増えてうれしいですしね。商売の競争って平和でしょう。

-- 戦わないための戦略という感じがしますね。

そうです。ビジネスの目的は、お客様の支持を得て、お客様に認められる価値を提供すること。平たく言えば、お客様が「この会社がなくなったら困るな」という状態をつくることです。それが企業の存在理由です。

-- 経営者が意識すべきことは何でしょうか。

儲けることです。それも一時的ではなく、どうしたら長く儲かるかと、真剣に考えることです。僕は企業の成果は、資産でも売り上げでもなく、長期利益に表れると考えています。長期利益は、企業が独自の価値をつくっているかどうかがわかる、最も正確な指標です。長期利益が出れば、従業員に分配して雇用を新たに生み出し、納税して社会貢献ができる。長期にわたって事業を守っていくためには人材育成も必要ですし、地球環境も守らなければならないのでSDGsにも注力する。自然とESGを満たそうと努力することになるんです。

日本資本主義の父といわれる渋沢栄一は『論語と算盤』で、道徳にかなっている商売が、最も長期的に儲かると言っています。本当に儲けたいと思う経営者は必然的に算盤だけじゃなくて、論語と算盤になるというのが渋沢さんの考えです。長期利益を真剣に追求すれば、企業が社会的な存在である以上、必然的にESG条件を満足させるという僕の考え方と同じですね。

-- 短期利益ではダメなのですね。

そのとおりです。従業員から搾取したり、お客様をだましたり、環境を破壊したりして一時的に儲けることはできますが、それは長く続きません。法律や株主やお客様が許しませんから。それが株式会社制度の良いところです。

例えば決算が四半期単位や1年単位であるように、短期のほうが予測しやすいですから、社会の指標や仕組みは人間の関心をどんどん短期へ短期へと持っていくものなんです。だからこそ、長期的な視野を常に持っておくことが、リーダーシップの本質であり、経営者の役割だと思います。経営の全ては、経営者の時間軸の取り方に帰結すると考えています。

-- 事業環境が厳しいなかでは、どの企業も生き残りを目指すように思っていました。

企業は、存続を目的とするのではなく、価値の創出を目的としなければならないと思います。率直に言えば、儲からない会社は無理に存続させる必要はないですね。「〜せざるを得ない」と言う経営者もよくいますが、これもおかしな話です。経営は自由意志で、誰も経営者に経営判断を強制することはありません。

経営の原理原則、目的をシンプルに追求することが大事です。企業には、儲かる商売をどんどんつくっていただいて、法人税をたくさん納めて、社会のために使えるお金を生み出してほしいと思っています。

執務中の楠木さん

 

時代に応じて、働き方は変化する

-- ジョブ型雇用が日本でも評価され始めています。企業が職務内容に応じて必要な人材を採用することで、より専門的なスキルが従業員に求められると思いますが、この方式は日本に定着するのでしょうか。

僕は、雇用形態はジョブ型以外にあり得ないと思っています。日本ではこれまで、新卒で会社に就職して、定年まで勤め上げ、年齢とともに給与が上がっていくというメンバーシップ型雇用が多かったと思います。事実上、定年までの終身雇用ですね。

そもそも日本がなぜ、このような雇用形態を始めたかというと、20世紀初めにアメリカで勃興したデトロイトの自動車産業に学んだのです。会社は長期雇用で従業員のロイヤルティーを獲得して、会社を大きな一つの家族のようにまとめ上げ、従業員が長期にわたって技術や技能を蓄積して、大企業が育ち、大きな産業になりました。一方で、日本は財閥の支配で金融資本主義的な面があり、労働の流動性が非常に高かったんです。金払いのいい仕事があれば、すぐ転職してしまう。これではものづくり大国になれない、というわけですね。

-- 今の日本と全く逆です。

そうなんです。戦後の復興期から高度経済成長期の日本は、雇用も生産も市場も全てがどんどん伸びていく状態。そんな異常事態が、ごく短期的に日本にはあったんです。その特殊な環境に、メンバーシップ型雇用は非常にうまく適合しました。

経営にかかる評価コストを年功序列でゼロにしたのは、特にベストな選択でした。経営のなかでも最もコストや手数がかかるのは評価です。ジョブ型雇用では、その人の成果や能力を毎年評価して、お互いに合意のうえで労働契約を成立させる必要があるからです。

-- 評価に手間をかけている場合ではなかった。

はい。年功序列と終身雇用は本来破綻する組み合わせなんです。従業員全員に雇用を保証しながら、全員の給与が上がっていくなんて、普通の状態ではあり得ません。でも、当時の異常事態では、この選択が非常に有効でした。

-- 確かにそうですね。

日本は、はるか昔に高度経済成長期が終わり、低成長期に入りました。中国が今、まさにその状態で、もう成長は終わりですね。高度経済成長は、人間でいえば青春期のようなもの。イギリス、アメリカ、ドイツ、そして日本、韓国、台湾、中国と、さまざまな国が順に高度経済成長を経験しましたが、青春期がずっと続くということはあり得ません。成長が止まるのは普通のことで、むしろ高度経済成長期が異常なんですよ。

-- 日本の経済成長期は、青春期の上り坂を、とにかくみんなで全力疾走したという感じなのですね。

そのとおりです。異常事態が終わって環境が変わったら、当然働き方も変えなければなりません。

-- 年功序列では、評価されていない人も長年会社にいるだけで、たくさんの給与をもらってしまうことになります。評価されるべき人がきちんと評価されないこともありますよね。

はい。評価制度に手数を惜しまず資源を投入するジョブ型雇用が、通常の経済環境における基本です。雇用する側と雇用される側が、お互いに損得で合理的に考える必要があるんです。企業は従業員を評価しますが、同時に従業員は企業を評価するんですよ。従業員一人ひとりが会社の評価に納得して働き、きちんと評価ができない企業には誰も働きに来ない。ジョブ型雇用は合理的な経営だと思います。

長期雇用や年功序列が日本の文化、日本的経営だと思っている人が多いんですが、実は日本でメンバーシップ型雇用が始まって、まだ百年も経っていないんですよ。今の時代にメンバーシップ型雇用を続けているのは、働く側にとって大損です。日本の昭和の高度経済成長期に生まれた思い込みが、日本人の仕事についての考えや会社への帰属意識を大きくゆがめたと思いますね。高度経済成長期を知らない若い世代とも、仕事に対する考え方が合わなくなっていきます。もっと合理的に、理論的に経営を考えることが大事です。

-- よくわかりました。ただ、ジョブ型雇用と聞くと、アメリカ映画でよくあるように、ある日突然会社をクビになってしまうというイメージがあります。

一言でジョブ型雇用、メンバーシップ型雇用といっても、経営の仕方は多様です。日本にメンバーシップ型雇用が多いといっても、本当にさまざまな会社があるでしょう。ジョブ型といっても、人材採用にもコストがかかりますから、従業員をすぐクビにするような会社は、あまりないですよ。基本的に経済活動というのは、いい意味で、損得で合理的に動くものです。

-- 楠木さんの働き方は、いかがでしょうか。

私は学者ですから、基本的に一人で仕事をしていますね。執筆や研究や講義などを通してお客様に喜んでいただくことが仕事です。会社や上司ではなく、常に市場に評価を決められる世界ですから、とてもシンプルですよ。

 

絶対悲観主義だからこそ思い切ってチャレンジできる

-- これから日本人の働き方が大きく変わっていきそうですが、働く時にどんなことを意識したらいいでしょうか。

ぜひご提案したいのが「絶対悲観主義」です。僕は「絶対にうまくやらなければ」と思うと、かえって思い切り仕事ができないんです。初めから「どうせうまくいかないだろうけど、ひとつやってみるか」という気持ちのほうが、フルスイングできますね。

ただ、絶対悲観主義は、僕と同じような気質の人にはいいのですが、いろいろな気質の人がいますから、その人に1番合った哲学を持って仕事をすればいいと思います。「夢に向かって全力疾走」とか「自分の限界に挑戦」という感じのほうが力を発揮できる人には、絶対悲観主義は向きませんので、ご注意ください(笑)。

-- 失敗するだろうと思っておくほうが、失敗を恐れずにチャレンジできるということですか。

はい。仕事は、自分以外の人の役に立って初めて仕事なんです。そこが趣味との違いです。自分以外の人をコントロールすることはできないですから、仕事とは定義からして思い通りにならないもの。それなのに、成功させなければならない、失敗できないというのは、おかしいですよね。僕は、仕事は失敗するのが普通、成功したら事件だと思っています。

また、うまくいかなかった後が、好きなんですよ。しみじみと缶コーヒーを飲みながら「うまくいかねえなあ」って口に出して言うようにしているんです。ちょっと眉間にしわを寄せて「やっぱり、そうは問屋が卸さねえか」って。これが大好きなんです(笑)。

-- 渋いですね(笑)。

失敗は本当に味わい深いものです。失敗によって謙虚になれますし、世の中を知ることもできます。失敗を味わうルーチンを深めていくと、人生が豊かになりますよ。

-- 私も自分なりの失敗の味わい方を見つけてみたいと思います(笑)。本日はありがとうございました。

ビジネスパーソンに向けた講演会にて

 

と   き:2022年10月26日

と こ ろ:西新橋・当社東京支社にて

 

The post 経営の目的は顧客に価値を提供し、長期利益を生み出すこと first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>
/magazine/archives/6757/feed 0
空気を読むのをやめて寛容な日本社会に /magazine/archives/6183?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e7%25a9%25ba%25e6%25b0%2597%25e3%2582%2592%25e8%25aa%25ad%25e3%2582%2580%25e3%2581%25ae%25e3%2582%2592%25e3%2582%2584%25e3%2582%2581%25e3%2581%25a6%25e5%25af%259b%25e5%25ae%25b9%25e3%2581%25aa%25e6%2597%25a5%25e6%259c%25ac%25e7%25a4%25be%25e4%25bc%259a%25e3%2581%25ab /magazine/archives/6183#respond Mon, 23 Jan 2023 04:43:57 +0000 /magazine/?p=6183 写真=本間伸彦   2018年度から4年間、アフリカ出身者として初めて、日本の大学の学長に就任したウスビ・サコさん。サコさんの目に、日本の社会はどう映っているのでしょうか? ご専門の空間人類学や、ダイバーシティ…

The post 空気を読むのをやめて寛容な日本社会に first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>

京都精華大学全学研究機構長
ウスビ・サコ 〈うすび さこ〉

Oussouby SACKO
マリ共和国生まれ。高校卒業と同時に国の奨学金を得て中国に留学。北京語言大学、南京東南大学を経て1991年来日。1999年、京都大学大学院工学研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工学)。専門は空間人類学。「京都の町家再生」「コミュニティ再生」など社会と建築の関係性をさまざまな角度から調査研究している。バンバラ語、英語、フランス語、中国語、関西弁を操るマルチリンガル。京都精華大学人文学部教員、学部長を経て2018年4月から2022年3月まで、京都精華大学学長を務める。2022年4月より現職。著書に『アフリカ出身 サコ学長、日本を語る』『アフリカ人学長、京都修行中』『ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」』など。
写真=本間伸彦

 

2018年度から4年間、アフリカ出身者として初めて、日本の大学の学長に就任したウスビ・サコさん。サコさんの目に、日本の社会はどう映っているのでしょうか?

ご専門の空間人類学や、ダイバーシティ、教育についての考えもお聞きしました。

決められない日本の組織 大学の新たな可能性を示す

-- どのような経緯で来日されたのですか。

アフリカのマリ共和国で生まれて、高校卒業後に国費留学生として中国に留学し建築やデザインを学びました。1991年に来日し、京都大学大学院に通い始めたんです。京都精華大学で講師になったのは2001年のことです。2002年には日本国籍も取得しました。

-- 教員として、日本の大学で感じたことは。

組織が決断をするプロセスがとても長いなと感じましたね。やる気を持って入学してきている学生にも、大人の都合やカリキュラムの問題で不自由を感じさせてしまっていました。私たち職員の手で学ぶ環境をつくりたいと思い、教務主任時代に同僚たちと「サーティーズの会」を結成しました。

-- 30代の皆さんで、大学を変えていこうということですね。

ほとんど飲み会をしているだけでした(笑)。でも、「大学の未来をどう考えるか」というテーマで、教学の改革案や学部構想を練って、理事会に提出したんですよ。それは認められなかったんですが、みんなのやる気が上がり、ビジョンも見えました。私はそのタスクフォースのトップを務め、選挙で学部長に選ばれました。

-- 立場が変わったことで、どのような変化がありましたか。

その次に壁になるのが学長なんですよ。学長がイエスと言わないと何も決まらない。だから学長選挙に出て、学長になりました。

-- 学長とは、どんなお仕事なのですか。

カリキュラムの管理体制をつくったり、学部長や研究科長を指名して定期的に会議をしたり。二つの学部を新たに創設したほか、うまくいっていない分野の改革も必要でしたし、入試関連の仕事やダイバーシティの取り組み、国際展開、地元との連携にも注力しました。

-- 幅広い業務があって、とてもお忙しそうですね。

日本のトップは孤独ですね。いろいろな仕事をしていると、だんだん自分一人で全てを決めている感じがしてくるんです。大学のいろいろな書類にも「学長の強いリーダーシップのもと…」って書かれているし。私は強いリーダーシップなんて発揮していないのに(笑)。今度は学長を言い訳にして、遠慮し合ってしまうんです。そこで「皆さんがやりたいことを、どんどんやろうよ」という開放的な雰囲気をつくるようにしました。そうすると、みんな本当にいろいろなアイデアを持ってきてくれました。日本人は大きなポテンシャルがあるのに、遠慮し合ってチャレンジがしにくくなっていることが多いかもしれませんね。

-- サコさんが、学長になってやってみたかったのはどんなことですか。

大学の可能性を再び示すことです。立派な理念があって、優秀な職員も学生もいるのに、なんでうまくいかないんだろうと。そこで理念を再点検して、ゼロから考え方を正していきました。

これは学生の募集に大きく影響しました。学長就任前の京都精華大は定員割れしていたのですが、在任中に、定員百%近くになるまで回復させました。特に留学生は、私が学長になった頃は1割以下でしたが、多い時には30%にまで増えました。それまで留学生は留学生枠で受験していたんですが、入試改革を行って日本人の学生と同じ試験を受けられるようにしたんです。

-- 日本語を学び、日本語が母語の人と同じ試験で合格する、優れた留学生が多いのですね。

留学生は勉強する意欲がとても高いですね。現在私は、全学研究機構長としてマンガや伝統産業などの研究センターを統括していますが、特にマンガ学部には、アジアや北欧、ニュージーランドなどから「マンガを学びたい!」と強い思いを持って日本に来る学生が多いです。マンガの経済論や社会的インパクト、マンガがなぜはやっているのか、日本の教育現場でどのように使われているのかといった研究をしています。

 

心理と行動をもとに建物や街を構成する

-- サコさんのご専門の空間人類学とは、どんな学問ですか。

建築は街を構成しています。そこに法律や建築家の価値観も加わって街の形が決められていきます。でも、その空間の中で行動するのは人なんです。だから、機能に従って形を作るのではなく、人の心理や行動から空間を考えたいと思ったんです。

-- 建築に関わる学問である一方で、人の心理や行動を研究する必要があるのですね。

そうです。会社なら、みんな何時に出社するのか、一日のうちにどんな行動パターンがあるか。家では家族それぞれの居場所をどうつくるか。ふつうはリビングはだんらん、寝室は寝る機能のためにつくられていますが、ベッドルームで寝る前に仕事をする人もいるし、リビングで家族がくつろいでいる横で宿題をする子どももいるし。

-- 空間の機能は一定ではないということですね。空間人類学をご自身の研究テーマにしたのはいつですか。

中国に留学して建築デザインを学ぶなかで、新しい住宅を提案するために、今の住宅がどう使われているか調べ始めたんです。当時日本はちょうど公団の建て替え時期で、居住者の意識調査や居住環境の評価などの研究が盛んでした。公団の中庭も建築だけの視点では、広さや明るさしか見ないんですが、そこで遊ぶ子どもたちやそのお母さんたちの心理を探ると、そこに物語が生まれるんです。

-- タイミング的にも文化的にも、当時の日本が研究対象として興味深かったのですね。

はい。マリの中庭の使い方も大きなヒントになりました。中庭を数軒の家が取り囲む伝統的な集合住宅が多く、住人が自然と中庭に集まって、家族を超えたコミュニティができるんですよ。空間をどうデザインするべきか、テクニックを持っているのは僕ら研究者や建築家だけれど、使い手の話を聞いて、気持ちを理解しないと、建築はエゴにしかなりません。今は、京都の東山区で空き家となっている長屋を再生するプロジェクトにも取り組んでいます。

-- 日本が、研究し生活する場になり得たのはなぜですか。

やはり、日本語を覚えたのが良かったですね。テレビでお笑い番組を見て、みんな笑っているのに私だけわからないのが悔しくて、がんばって勉強しました。英語で書かれた文献や通訳を通して研究するよりも、日本人と一緒にフィールドワークをして日本語の文献を読んだほうが、私の想像の日本ではなく、リアルな日本に触れているなと感じます。私は論文も日本語で書いていますよ。そのうち、いろいろな研究や仕事に誘っていただいて、さらに知識が増えていきました。

1983年頃、マリの高校時代

 

多様化が進む日本 迷惑を掛け合える関係が必要

-- ダイバーシティについての考え方をお聞かせください。

誰もが自分の居場所が見つかる環境づくりをすることだと考えています。宗教や人種など、社会的ないろいろな点でお互いに違いがあると認識し合うことが大事です。認める、認めないというところまでいかなくてもいいんです。サコは誰かに認められなくても、サコですから。

-- 確かに、認めるところまで目指すと、葛藤もありますものね。

そうなんです。あとは、マイノリティを優遇するだけじゃなく、マジョリティの意識改革も重要です。例えば、いつも一緒に遊ぶ仲間がいたけれど、遊んでいて何か合わないなと感じるようになった。それってなかなか認められないですよね。マジョリティのなかにもさまざまな価値観があるんです。マジョリティのなかの同調圧力を解放して、その価値観を持つ人たちをいかに楽にさせるかがすごく大事だなと思います。

大学生と接すると、「自分と向き合うのが怖い」と感じる人がいます。でも、自分の弱さを受け入れられる人は、他人も受け入れられるんですよ。絵が苦手という弱さがあっても、描けるように努力すればいいんです。描ける振りをしなくていい。

-- 自分が絵を描けないということを認めれば、速く走れない子のことも認められる。

そういうことです。この間、建築の授業で合宿した時に、中国人留学生がシェフかと思うぐらいに、めっちゃ料理がうまかったんですよ。日本語があまりうまく話せないから、日本人は今まで留学生を下に見ていたんですよね。でも、日本語のハンデがないところで力を発揮すると、料理はマジで誰もが認めるうまさでした。自分ができないことも、できることもあるから、お互いに支え合っていったらいいと思うんですよね。

-- そうですね。マリは多民族国家と聞きましたが、ダイバーシティについてはいかがですか。

マリには多種多様な民族・人種の人がいて、もともと多様な社会。民族の違いが仲違いの原因になりません。14世紀に作られたマリ帝国の憲法「クルカン・フガ」は人類の無形文化遺産になっていて、相互扶助や、お互いの財産を尊重し合うということが定められています。面白いのは、サラングヤという、相互扶助を確認する手段。サコという苗字とナナンという苗字の人はサラングヤの関係があって、会うとちょっときつい冗談を吹っ掛けられることになっていて、それをうまく返さなきゃいけない。一度、空港の入国審査官にやられました。「サコ、日本で泥棒してきたのか?」って。

-- 入国審査官の苗字がナナンさんだった。

そうなんです。相互扶助というのは、冗談が通じ合って、迷惑をかけても面倒くさく思わないということだと思います。

-- 日本では、子どもの頃から「人に迷惑をかけないように」と教えられます。迷惑かけてもいいんだよ、お互い様だよという感覚にはなかなかなれないかもしれません。

日本はこれまで、周囲の人がみんな同じ価値観を持っている前提のハイコンテクストな社会でした。全て言葉にしなくても相手がこちらの意図を汲んでくれて、空気を読んでくれる。でも、これからは日本も日本人だけが構成する社会ではなくなり、価値観も多様になり、全部言わないと通じないローコンテクストな社会になります。日本人、いつまで「島国だから」と言ってるんだよ(笑)。その島国のなかに私もいるんやで。

-- そうですね(笑)。ある講演会で日本に暮らす外国人の構成割合は、日本人が思っているより相当増えていると聞きました。これから日本人はどんなことを意識する必要があるでしょうか。

たぶん、「空気」から離れたら、いい感じになる。空気が人を不自由にしているような気がします。日本人は「今、ここでこれを言っていいのかな」ととても周りを気にしますよね。自分で勝手に空気を読んでいるんですよ。しかも、読めていない。読んでいる振りをしているんですよ。だから、もう少し社会が寛容になるといいのかもしれませんね。

例えば、諸外国では一人ひとりがコロナとの付き合い方を決めて、マスクをつけるかどうかも判断しています。でも、日本人は自転車に乗っていて「マスクがしんどいな」と思っても、「誰かに何か言われるかも」とマスクを外さない(笑)。意識改革には長い時間がかかりますが、子どもの教育から変えていくのがいいかもしれません。

2010年頃、京都精華大学の研究室で学生と

 

正解のない社会で生き抜く力を育てる教育を

-- サコさんはマリで教育を受け、中国や日本にも留学されましたが、教育面ではどのような違いを感じますか。

マリでは、植民地化時代に西洋の教育が入ったので、勉強は外国の文化を覚える手段であり、競争に勝ち上がって自分の見せ場をつくる場でもあります。ただ、勉強ができる人もできない人も仲間だから、一緒にサッカーしたり遊んだりしますよ。中国でも堂々とオープンな競争をしますが、日本は陰の競争なんです。自分と同じ行動ができない人は仲間ではないと区別し、カテゴリー化してしまう感じが日本の教育の中によくありますね。勉強している子たちは、ライバル意識がありつつもリスペクトしてつながっているけれど、ヤンチャな子たちはヤンチャグループの枠のようなものがあって、グループ同士はほとんど関わりがない。小学校低学年は型にはまっていなくて個性的で面白いのに、大きくなると好きなことを言えなくなってしまいます。

-- 枠に入れられてしまったら、自分もその枠のなかでだけ考えるようになってしまいますね。

わからないものを枠にはめると安心するんですよね。日本の今の教育システムは、個性が大切と言いながら、個性を殺して日本人をつくる教育だと思います。「子どもたちに何を求めてんねん、大人」っていう感じ。だから、大学生にいきなりディベートしろと言っても、できない。

-- 人と意見を闘わせずに済むように教えてきたわけですものね。

日本は今まで国籍とアイデンティティがイコールだったのかもしれませんが、アイデンティティは生まれ育ったコミュニティや家族や文化によってつくられるもので、本来、国籍とアイデンティティは違います。これからの社会に必要なのは、個人が自分の生き方を選択できる教育。自分は何をしたいのか、自分は何者なのか考えさせて、自分の言葉を持たせれば、勉強も楽しくなりますよ。

-- 確かに、日本の子どもたちは試験のために勉強していると思います。

日本では答えを教える教育しかしないんです。全部、物事に答えがあるかのようにつくってある。でも、正解のないものは世の中にいっぱいあるし、そこで問いが生まれる可能性も高いです。答えを見つけることに必死だと、問いが立てられないんですよ。時間に追われる勉強しかしていないですし。子どもが家に帰ってきたら、親が「宿題は?」って。もっとダラダラしてもええんちゃうかな。

また、子どもに自分の生活への興味を持たせて、家事をさせることも教育の一つだと思います。私の子どもたちは小学生の時から、自分の衣服の洗濯や、自分の部屋の掃除をしています。親から見たら、きちんとできていなくて汚いんだけれども、本人が良ければそれでいい。日本の親は家事を全部やってあげることで、子どもが勉強をする時間をつくりたいのかもしれないけれど、洗濯や掃除も立派な勉強ですよ。

-- サコさんの親御さんの教育はいかがでしたか。

父は「自分で苦労を覚えろ」とよく言っていました。苦労するほうが、手に入れたものの大切さもわかり、思い出にもなると。私も、学生たちのアイデアに対して「やめておいたほうがいい」と言ったことは一度もありません。自分で失敗して覚えるのが大事だから、チャレンジする前にやめさせることはしません。「やってみたらいいやん」って言いますね。

-- 日本人にとって、今までの当たり前が当たり前でなくなっていくことを実感しました。本日はありがとうございました。

 

と   き:2022年9月6日

と こ ろ:西新橋・当社東京支社にて

 

 

 

The post 空気を読むのをやめて寛容な日本社会に first appeared on SANYO CHEMICAL MAGAZINE.

]]>
/magazine/archives/6183/feed 0