空と大地 – SANYO CHEMICAL MAGAZINE /magazine Mon, 13 Feb 2023 04:11:17 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.5 /magazine/wp/wp-content/uploads/2020/09/cropped-sanyo_fav-32x32.png 空と大地 – SANYO CHEMICAL MAGAZINE /magazine 32 32 不毛の砂漠を貫くアスファルトの道 /magazine/archives/572?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e4%25b8%258d%25e6%25af%259b%25e3%2581%25ae%25e7%25a0%2582%25e6%25bc%25a0%25e3%2582%2592%25e8%25b2%25ab%25e3%2581%258f%25e3%2582%25a2%25e3%2582%25b9%25e3%2583%2595%25e3%2582%25a1%25e3%2583%25ab%25e3%2583%2588%25e3%2581%25ae%25e9%2581%2593 /magazine/archives/572#respond Tue, 01 Oct 2019 07:48:54 +0000 http://www.sanyo-chemical.co.jp/magazine/?p=572 タクラマカン砂漠。砂丘の高さは50mほど。砂丘の砂は、風で三日月の開いた方へと流れ、移動していく。 高校時代に読んだ探検記で憧れ続けてきた、中央アジア奥地。なかでもタクラマカン砂漠は、人間の侵入を許さない厳しい場所だとい…

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タクラマカン砂漠。砂丘の高さは50mほど。砂丘の砂は、風で三日月の開いた方へと流れ、移動していく。

高校時代に読んだ探検記で憧れ続けてきた、中央アジア奥地。なかでもタクラマカン砂漠は、人間の侵入を許さない厳しい場所だという強烈なイメージがあった。そこを飛べる機会が、突然舞い込んできたのだ。砂の海を吹く風への不安より、憧れの地を飛べるうれしさが勝った。

「タクラマカン砂漠を飛べるだろうか?」。電話の相手は、映像制作会社プロデューサーの広瀬凉二さん(六六歳)。突然、憧れの舞台が目の前に現われ、僕の頭は混乱していた。
タクラマカン砂漠の横断で九死に一生を得たエピソードが綴られる『中央アジア探検記』。そして、幻の湖「ロプノール」を解明すべく、シルクロードの果てへと向かう探検を綴った『さまよえる湖』。探検家スウェン・ヘディンの著作は、高校時代からの愛読書だった。
その憧れの探検の舞台を、空から望める機会が目の前に現われていた。砂漠の風は分からなかったが、即答していた。「飛べます!」と。二〇〇六年四月のことだった。

総延長五二二キロのオイルロード

タクラマカン砂漠は、中央アジアのタリム盆地の大部分を占め、日本を飲み込むほどの大きさを誇る。現地のウイグル語で「一度入れば、二度と出られない」を意味するという。また、巨大な砂丘が生き物のように姿を変え、シルクロードを行く隊商(キャラバン)や幾多の探検隊の命を奪ったために「死の海」とも呼ばれる。

 

オイルロードと石油採掘の前線基地。テントが張られ、砂漠探査用車が並ぶ。車のタイヤは極太で、幅80cm

このとんでもない砂漠のど真ん中から、原油が噴出。中国は国を挙げて石油開発に着手した。一九八四年のことだった。そして、一〇年後。砂を布で覆い固める新技術の開発に成功。砂漠を南北に貫く、五二二キロの道、「オイルロード」を作り上げた。
躍進する中国経済を撮ることが取材の目的だったが、それ以上に、探検家が旅した砂漠を自分の目で見てみたいという思いがつのる。僕は急ぎエンジンに防塵対策を施し、出国に備えた。新疆(しんちゃん)ウイグル自治区の中心にあるウルムチで飛行機を降り、車で移動すること丸一日。タクラマカン砂漠の北端に位置するオアシス・コルラにたどり着いた。ここから五〇〇キロ、オイルロードを南下した。

あたりは秒速一〇メートルの砂嵐。目は開けられない。細かな砂が入り込み、髪の毛はバサバサだ。吹き上げられた黄砂は太陽を遮り、日中なのに車はヘッドライトをつける。ワイパーで砂を掃きながら、アスファルトの道を頼りに薄暗い世界を進んだ。

砂丘の高さは五〇メートル

朝がやってきた。日差しが砂丘に当たるやいなや、日の当たる面と当たらない面とで対流が起こり、風が発生する。そして、その風は突然、竜巻へと変化して、あたり構わず巻き上げていた。これがタクラマカンの風だった。はたしてモーターパラグライダーで飛ぶことができるのだろうか? 経験したことのない風が、不安を倍増させていた。

三日続いた嵐が去り、チャンスがやってきた。しかし、舞い上がった黄砂は上空に残り、漂う。依然として、視界の悪い黄土色の世界だった。日の出とともに離陸。
離陸するとたちまち、つかみどころのない砂の海が広がった。目印となるものはまったくない。いくら高度を上げても、波打つ砂の山が地平線まで続く。古の探検家たちは、どうやって進路を導き出したのか。圧倒的な景色を前にして、舌を巻くしかなかった。パイロットの意思とは無関係に、パラグライダーはいつもどおりに滑空して、グイグイとタクラマカン砂漠の奥へと入り込んでいく。砂丘は五〇メートルほどの高さがあった。尾根伝いに滑空すると、翼は風の対流を受けて歪みはじめた。そして、あっという間に砂丘の中に入り込み、自分の位置がわからなくなっていた。このまま不時着したらどうする? 探検家・ヘディンの心境に、少し触れた気がしてきた。

青いポンプ小屋に住む夫婦

オイルロードと、赤い屋根に青い壁のポンプ小屋。何さんは毎日、自転車に乗り、ホースの手入れを行なっている。
植物の植わっていない道は砂に埋もれ、男女の労働者が毎日スコップでかいていた。

砂漠のなかに延びるオイルロードに沿って、飛んでいく。すると、点在する、同じ形をした建物が目についた。それは赤い屋根に、青い壁をしていた。建物沿いに、幾筋もの植物が列をなしている。「なぜ、水のない砂漠に植物が?」。疑問が湧いてくる。
着陸後、青い壁の家を訪ねた。四川省出身の何(か)さん(三三歳)は夫婦者としての出稼ぎで、このポンプ小屋に住み込み、働いているという。地下水を汲み上げ、散水し、砂漠に植樹した木々を育てている。ポンプは、一日に一二時間稼働するという。

水は、直径一・五センチのホースを流れる。ホースには一メートルごとに小さな穴が開いていて、その穴から水が滴るという仕組み。五キロにわたるホースの穴が砂で目詰まりしないように、毎日点検するのが何さんの仕事だ。同じようにホースの点検をする夫婦が、五キロごとに暮らす。
このホースは、オイルロードの全域に張り巡らされている。タクラマカン砂漠は、年間降雨量がわずか一〇ミリ。それでも、五二二キロにわたって延びるホースと、五キロおきに暮らす夫婦一〇〇組のおかげで、砂漠に木々を育てることを可能にしていた。
ホースを伝い歩くと、水が干上がった跡を見つけた。そこには白い結晶が残っていた。舐めてみると、塩辛かった。タクラマカン砂漠が太古、海だったことを教えてくれた。

オイルロードを守る三種の植物

黄砂で霞むコルラの街。かつてはシルクロードのオアシス都市として栄えた。

オイルロードに沿って植えられている植物。その最も砂漠に近い外側には、塩分に強くてアルカリ性の地下水にも耐えられる「ソオソオ」が植わっていた。背の低い、松のような木だ。その内側には、砂を押さえてしっかりと根を張る「スナナツメ」が植えてある。オリーブの木に似ていて、赤い実をつける。道路に一番近いところには、地下水をよく吸い上げてきれいな紫色の花を咲かせる「タマリクス」が植わっている。あとひと月もすれば、オイルロードは緑に縁取られるという。

散水効果で列となった植物。その壁が砂の侵入を防ぎ、オイルロードは砂に埋もれることなく管理されている。そして、ここをひた走るトレーラーに積まれた石油は、中央に届く。何さんは誇らしげに話してくれた。別れ際、幾つか尋ねてみた。「ずっとここで働くのですか?」。「お金がたまったら故郷に戻り、家を建てるんだ」。「ここの暮らしのつらいことは?」。「砂嵐で、何日もポンプ小屋に閉じ込められることだよ」。「楽しみは?」。「毎日、百科事典を一ページずつ読んでるんだ。ここは物音がなくて、勉強がはかどるよ」タクラマカン砂漠のど真ん中。黄砂に霞かすむ、果ての果てまで延びるオイルロード。上空からその道を見つめながら、淡々と働くポンプ小屋の住人と、躍進する中国経済に思いを馳せていた。へディンの探検から一〇〇年。砂漠の脅威は変わらずに残っている、と信じたい。しかし、砂漠に入り込む人間が現われた。そして、ドラマは新たに作られる。これが現実なのだろう。

(協力 テレビ朝日 「素敵な宇宙船地球号」)

 

文・写真=エア・フォトグラファー 多胡 光純〈たご てるよし〉

1974年東京都生まれ。京都府木津川市在住。獨協大学卒。学生時代は探検部所属。

主な活動に「マッケンジー河漕飛行」「天空の旅人 紅葉列島を飛ぶ」などがあり、旅とモーターパラグライダーによる空撮を軸に作家活動を行っている。2014年12月には10年間の活動をまとめたDVD『天空の旅人シリーズ』3作を同時リリース。販売はwww.tagoweb.netにて。

 

写真=本間伸彦

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観光と環境で揺れる絶景の未来 /magazine/archives/636?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e8%25a6%25b3%25e5%2585%2589%25e3%2581%25a8%25e7%2592%25b0%25e5%25a2%2583%25e3%2581%25a7%25e6%258f%25ba%25e3%2582%258c%25e3%2582%258b%25e7%25b5%25b6%25e6%2599%25af%25e3%2581%25ae%25e6%259c%25aa%25e6%259d%25a5 /magazine/archives/636#respond Tue, 01 Oct 2019 05:31:07 +0000 http://www.sanyo-chemical.co.jp/magazine/?p=636 中国の雲南省には、「紅大地」と呼ばれる地区(東川赤土地)があるという。 土が真っ赤で、「この世のものとは思えない美しさ」と形容される。 現地に行ってみると、大地の赤に畑の緑が鮮やかに映えて、たしかに絶景だった。 しかし僕…

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中国雲南省に広がる紅大地。絶景が観光客を呼ぶ。50年前は木々に覆われた緑の大地だった。

中国の雲南省には、「紅大地」と呼ばれる地区(東川赤土地)があるという。
土が真っ赤で、「この世のものとは思えない美しさ」と形容される。
現地に行ってみると、大地の赤に畑の緑が鮮やかに映えて、たしかに絶景だった。
しかし僕には、それはどこか不自然さを感じさせる光景として見えていた。

「紅大地(べにだいち)は消失するかもしれない。空から記録するのはどうだろうか?」。
中国に精通する映像ディレクター・永野浩史さん(三六歳)。彼と出会ったのは、タクラマカン砂漠から戻ってすぐのことだった。
中国雲南省には、「紅大地」と呼ばれる真っ赤な大地が広がる。強烈な色彩を見に多くの観光客が訪れ、村は賑わう。しかし、その大地は近い将来、崩れ去るかもしれないという。

躍進する中国の今の姿を、もっと知りたい。思いは通じ、我々は雲南省紅大地へと旅立った。二〇〇六年五月のことだった。

パッチワークの絶景

広がるパッチワークの大地。ところどころに生える木々は植林の跡。(撮影:永野浩史)

雲南省の省都・昆明(こんめい)で飛行機を降り、車で紅大地へと向かう。直線距離は一二〇キロほどだが、実際の走行距離は三倍ちかくあったのではないか。幾重にも重なる山々を縫うように走る。標高は二六〇〇メートルまで上がった。寒い。我々を乗せた車は、霧の立ちこめる、深い山あいで止まった。

目の前には、紅大地が広がっていた。とにかく赤い。土を手に取ると、ジットリとした粘土のようだった。あたりを見渡すと木々はなく、目につく空間は耕し尽くされていた。
それにしても、土地が赤い。この大地は五〇〇〇万年前、ヒマラヤの造山運動に連動して生まれたという。独特の赤い土は、地中の鉄分が酸化してできたからだ。

その紅大地に乗っかるように、典型的な農村の暮らしが展開している。山肌に刻まれた、畑へと延びる土の道。その上を鍬を持つ農夫や牛車が行く。畑にはジャガイモや麦、トウモロコシなどが栽培されている。真っ赤な土と作物が織りなす景観は、刻々と変わる光の加減で変化した。さらに、季節ごとに成長する作物が、さまざまな色で紅大地を彩るという。それは一年を通じて、紅大地にパッチワークのような、唯一無二の絶景を生み出していた。

中国で一番の絶景

農道を歩く地元の少年。彼はカンフーのマネをして、こちらの気をひこうとする。応戦すると、すぐに友だちになれた。
一緒に土の道を歩いた。子どもらが指さす先には、ガイドの案内に率いられた、たくさんの観光客がいた。丘の際に三脚を立て、高価なカメラで紅大地を撮っている。この数年でとても増えた、と少年は教えてくれた。

観光客は、中国全土からやって来るという。撮った作品を見せてもらった。見るやいなや、僕は唸っていた。赤い段々畑をアップで撮った写真は油絵のような色彩を放ち、「異境」を想像させた。そして、紅大地に広がる黄金色の麦畑と、青い空。そのコントラストは、この世の風景とはとうてい思えない。

しかし僕は心の片隅で、どこか不自然さを感じて、一歩退いた気持ちで眺めていた。。紅大地は絶景というよりも、乱開発の結果なのではないか……。観光客たちの撮る写真には、いかにも「芸術的に」紅大地が写し撮られている。こんな写真が出回ったら、人々は紅大地に続々とやってくるに違いない。「好(ハオ)、好(ハオ)!」と写真を褒めた。どうやら通じたようだった。「この景観は中国で一番さ」。中年の写真愛好家の男性は、うれしそうに話してくれた。

農民から観光業への転身

こざっぱりとしたブロック造りの建物が、我々の宿舎だった。目の前には紅大地が広がり、眺望は最高だった。宿のオーナーは、先ほど観光客を案内していた、まさにその人だ。張開権(ちょうかいけん)さん(四七歳)。観光客を相手に、ガイドと宿舎を提供している。
世間話を通じて、いろいろと尋ねてみた。すると、なぜガイドをしているかを話してくれた。五年前に、紅大地を撮影している人を見かけた。このとき、これは商売になると直感し、観光業に転身したという。大当たりして、今では年収が九万元(一三五万円)。農民時代の三〇倍にも跳ね上がった。張さんが、この観光ブームの仕掛け人だったのだ。

どうしてここまで耕すのか?

緩やかに下る農道を走り、離陸。山間の乱流にもまれ、翼は揺れに揺れた。翼が安定し、意識を地表へ向ける。すると、眼下に広がる山、そしてその先の山まで、大地は紅い地表を見せていた。山肌という山肌は削られ、耕され、手つかずの場所は谷間だけだった。耕された山は、その姿をひと回り小さく変えてしまったのではないか。人間はここまでするのか。息を飲んでいた。

さらに翼を走らせた。谷を抜け、山を越えても、同様に紅い大地は続いた。山頂まで削られた山には、近寄ることができなかった。まるで要塞のように見え、恐ろしくて足が震えていた。今まで見てきた世界とは次元の違う、巨大なアンバランスを感じていたのだ。みごとなパッチワーク、と言いたい気持ちと裏腹に、どうしてここまで耕すのかと、素朴な疑問が生じていた。

かつては緑の森だった紅大地

緑はジャガイモ。その上は小麦。ジャガイモの下手の溝は雨水が流れ、紅大地を少しずつ削り込んでいる。

着陸。そして、地上で待っていた永野さんといろいろ話をする。「山肌の半分が緑で覆われた山を見かけた。紅い大地に緑の山。ちょっと異様だけど、あれは何なのだろう?」。すると永野さんは、村の長老、張東祥(ちょうとうしょう)さん(六八歳)から聞いた話を聞かせてくれた。ここは昔、緑の山だった。猪や野鳥など動物も多く、自然の恵みが暮らしを豊かにしてくれた。しかし、伐採で森はなくなった……この紅大地に暮らし続けてきた張さんは、とつとつと話してくれたという。

話は、およそ五〇年前に遡る。当時、中国政府は、経済成長を合い言葉に、鉄の増産を掲げた。そして、全国の農村部に溶鉱炉の増設を進めた。この紅大地にも溶鉱炉が建設され、燃料として森の伐採が進んだ。そして、一気に森が消失した。森を切り尽くした人々には、仕事がなくなった。
急増する人口を養うために、人々は裸になった森林跡地を耕し、畑に生きた。つまりこの紅大地は、五〇年前の乱開発から生まれたものだったのだ。皮肉にも現在、その大地が観光名所として、富を生み出している。

農地の流出と村の未来

紅大地に暮らす少年たち。カンフーごっこをして一緒に遊んだ。

「では、あの緑で覆われた山は?」。九〇年代後半、この紅大地では土石流による被害が急増した。木々の生えない土地は、結束力がない。そこに雨が降れば、雨水は大地を削り取るように流れる。農地流失が深刻化していた。そして一部の人々は、観光名所として光を浴びはじめた大地に、植林を開始した。その跡だという。
話は複雑だった。その植林は、五年後に中止されたという。村民は土地の流出よりも、観光収入の道を選んだのだ。そして、現在。一晩の雨で一軒の家が崩れ落ちるほど、土壌が緩んだ場所も出てきている。紅大地の流出を食い止めるには、大地を支える植林が不可欠だった。しかし、植林によって農業は継続できるが、紅大地の絶景は崩れる。植林は、村の希望の光を断つことを意味していた。紅大地の民は、大きな決断を迫られていた。
僕は、数年後には消失するかもしれない絶景の中を、ゆっくりと飛んでいった。同時に、紅大地に緑の植林がなされてもよいのではないか、とも考えてみた。緑に縁取られた紅大地。農業と観光の共存。その道は、きっと選択できるはずだ。
一〇〇〇年後の景観を想像することは難しい。しかし、一〇〇年先の景観までなら、具体的に思い描くことができる。言わば、孫の世代だ。それをすることは、今を生きる我々の責任の範囲ではないだろうか。他人事ではない。

(協力 テレビ朝日 「素敵な宇宙船地球号」)

文・写真=エア・フォトグラファー 多胡 光純〈たご てるよし〉

1974年東京都生まれ。京都府木津川市在住。獨協大学卒。学生時代は探検部所属。

主な活動に「マッケンジー河漕飛行」「天空の旅人 紅葉列島を飛ぶ」などがあり、旅とモーターパラグライダーによる空撮を軸に作家活動を行っている。2014年12月には10年間の活動をまとめたDVD『天空の旅人シリーズ』3作を同時リリース。販売はwww.tagoweb.netにて。

 

 

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バオバブの森に広がる丸い地上絵 /magazine/archives/1104?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e6%25a3%25ae%25e3%2581%25ae%25e3%2583%259e%25e3%2583%2580%25e3%2582%25ac%25e3%2582%25b9%25e3%2582%25ab%25e3%2583%25ab%25e3%2582%2592%25e9%25a3%259b%25e3%2581%25b6 /magazine/archives/1104#respond Tue, 01 Oct 2019 05:12:24 +0000 /magazine/?p=1104   空を活動の舞台としたときから、絶対にマダガスカルを飛ぶと決めていた。 学生時代、僕らが見たバオバブの森は、どんな空間に存在していたのか。 一一年の歳月が経ち、僕は再び、バオバブに出会う旅にでた。 今度は、は…

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バオバブ街道。この写真の右背後に緑の地上絵が広がっている。11年前に野宿した場所も、ここからほど近い。

 

空を活動の舞台としたときから、絶対にマダガスカルを飛ぶと決めていた。
学生時代、僕らが見たバオバブの森は、どんな空間に存在していたのか。
一一年の歳月が経ち、僕は再び、バオバブに出会う旅にでた。
今度は、はるかな空の高みから。
バオバブを見たい。バオバブの下で、南十字星(サザンクロス)を眺めながら野宿をしたい。バオバブは、高さは二〇メートルから高いもので五〇メートル、直径は五メートルから一八メートルにもなる巨木だ。サン・テグジュペリの『星の王子さま』にも出てくる。学生だった僕は、探検部の仲間と、マダガスカル島の北から南まで二〇〇〇キロを自転車で走り、バオバブの森を望み見る計画を立てた。一九九七年のことだった。

自転車でバオバブへ 一九九七

当時のマダガスカルでは、外国人が個人で旅行するケースはまれだった。たどり着く集落では、群がるように村人たちに囲まれた。「これは何だ」と自転車や装備への質問から始まり、「どこから来た」「どこへ行く」「腹が減っていないか」。毎回ひと騒動だった。マダガスカル人はとても温厚で、溶け込みやすい。食事を分けてもらったり、言葉を教えてもらいながら、旅は続いた。当時の日記を見ると「道は道にあらず」と、雨季の泥沼化した道の様子を描いたり、「なんて、みんな陽気なんだろう!」と、日本との違いを綴ったりしている。
首都のアンタナナリヴを出て、西に向かうほどに、文明の進歩が止まっているような村が現われた。住民の家の壁は、サトウキビの皮やわらを材料にして建てられていた。家の中には、小さな炊事用のかまどがあった。家に床はない。剥き出しの地面に、ゴザを敷いて生活をしていた。電気はなく、日が沈むと、すべては暗闇に消えた。
二ヵ月におよぶ旅の末、僕らは念願のムルンダヴァのバオバブの森に到達した。そしてバオバブを見上げ、野宿することに成功した。野宿した結果、わかってはいたが蚊の猛攻にあい、僕はマラリアを発症し、相棒はアメーバ赤痢になるという落ちがついた。
少々前置きが長くなったが、空を活動の舞台としたときから、僕はマダガスカルを飛ぶと決めていたのだ。かつて見たバオバブの森は、どんな空間に存在していたのか。一一年の歳月が経ち、僕は空からマダガスカルを望む旅にでた。二〇〇八年四月のことだった。

空からバオバブへ 二〇〇八

十一年ぶりのムルンダヴァ。大きな変化はなかった。人々は、相変わらずつばの短い麦わら帽子をかぶり、背筋を伸ばして裸足で歩いている。僕らが当時泊まった安宿を探したり、市場に足を運んでサカイという唐辛子ソースを手に入れたり。マダガスカルとの距離感を縮めようとする自分がいた。バオバブの森は、海辺に近い。潮の満ち引きで、風が変わった。
日が昇ると、大地は一気に温められた。大地から発生する上昇気流は、瞬く間に空で雲となった。グングンと大きくなる雲は、強烈なスコールをもたらす。赤道に近い、この国ならではの大気の流れを知った。安定して飛べる時間は限られていた。
土地勘があるとはいえ、フライト直前は気持ちが張り詰めた。「自分でコントロールできることは、すべてやった」と、思い切れるかどうかが大切だった。気持ちが決まり、顔を上げると、あたりには三〇〇人ほどの村人が集まっていた。エンジン音を聞きつけ、やって来たようだ。

バオバブの森で暮らす人々。定番の一戸建て。
上部にはプランテーションの端が見える。

バオバブの森と緑の地上絵

バオバブの森へ向け、離陸。飛び立ち、見えてきたのは、どこまでもどこまでも続く、バオバブの森だった。その森の合間には、水田が広がっている。バオバブのもとには、家が立ち並ぶ。人々の暮らしは、バオバブに守られているようだった。
一九九七年当時、僕らはこれほどスケールの大きな空間を旅していたのか……。愕然とさせられた。野宿した場所にも近づいてみる。すると、あたりにはいくつもの沼があった。蚊の猛攻を受けた理由が、今になって分かった。バオバブの森の上で、高く、大きく、三六〇度の旋回を始めた。すると、大きな緑の地上絵が見えてきた。これはプランテーションか? 目を疑った。
大きな大きな緑のサークルが、ドンドンドンと、斑点のように大地に描かれている。その一つを横切るのに、二分かかった。モーターパラグライダーは時速三〇キロ。一分間に五〇〇メートル進む。一つのサークルは、直径およそ一キロもある巨大な円だと分かった。離陸した場所から推測するに、サークルで栽培されている緑はサトウキビに違いない。
裏切られたような衝撃だった。どうして、バオバブの森の中にプランテーションがあるのか。目に映るのは、緑の地上絵に追いやられたバオバブの森の現状だった。
かつてムルンダヴァの近郊には、深いバオバブの森が広がっていたが、その後、農地開発のためにほとんどが伐採されたという。プランテーションの経営は中国人が行なっていた。地元のマダガスカル人を多く雇用し、地域貢献しているという。これが現実だった。ただ、二〇〇七年になって、残ったバオバブを保護することが決まった、と聞けた。

バオバブの森の奥にはプランテーションが広がっていた。直径1kmの巨大な円が36個。
地上からは、その規模は分からない。

記録する者として

自分のエゴなのか。旅した空間は、永遠に美化したいものなのか。一一年前も今も、僕は豊かなバオバブの森を期待していた。再訪フライトは、フライトとしては成功した。しかし空からの眺めは、現実をそのまま見せてくれた。
地球が内包する空間は、想像も及ばぬスケールで横たわっている、と信じている。しかし、一つひとつの空間は、想像以上に、人による浸食と隣り合って成立しているのかもしれない。
世の中、絶景写真は多々あるが、記録する者として、何に視線を注いでいくのか。思い出を通じて、自分が深く問われた旅だった。

バオバブの森には広範囲に水田が広がる。田植えをする人々。牛が代かきをする。マダガスカル人はとにかくお米をたくさん食べる。カレーライスをよそう丸い皿にドサッとお米が盛られ、それを平気でおかわりするぐらいだ。

(協力 テレビ朝日「空から見た地球」)

文・写真=エア・フォトグラファー 多胡 光純〈たご てるよし〉

1974年東京都生まれ。京都府木津川市在住。獨協大学卒。学生時代は探検部所属。

主な活動に「マッケンジー河漕飛行」「天空の旅人 紅葉列島を飛ぶ」などがあり、旅とモーターパラグライダーによる空撮を軸に作家活動を行っている。2014年12月には10年間の活動をまとめたDVD『天空の旅人シリーズ』3作を同時リリース。販売はwww.tagoweb.netにて。

 

写真=本間伸彦

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草の海の下に広がる黒い泥炭地 /magazine/archives/1112?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e8%25b1%258a%25e5%25af%258c%25e7%2594%25ba%25e3%2583%25bb%25e3%2582%25b5%25e3%2583%25ad%25e3%2583%2599%25e3%2583%2584%25e5%258e%259f%25e9%2587%258e%25e3%2582%2592%25e9%25a3%259b%25e3%2581%25b6 /magazine/archives/1112#respond Tue, 01 Oct 2019 03:19:19 +0000 /magazine/?p=1112   サロベツで酪農研修を受けようと日本中からやってきた人たちが、 そのまま酪農家の家族になっていったという話には、思わず心が和む。 周囲には緑の草の海がはるかに広がり、日本ばなれした風景を見せている。 泥炭地特…

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サロベツ原野。どこまでも続く緑の海に見えるが、土地の改良が進み、湿地面積は1950年頃に比べ、半分以下になった。

 

サロベツで酪農研修を受けようと日本中からやってきた人たちが、
そのまま酪農家の家族になっていったという話には、思わず心が和む。
周囲には緑の草の海がはるかに広がり、日本ばなれした風景を見せている。
泥炭地特有の湿原を、先人たちはみごとに牛の飼える牧草地に変えていったのだ。
阿寒湖でマリモの空撮を終えた僕は、そのまま北海道を車で旅した。目的地は決めず、まだ見たことのない道北を、稚内に向けて北上する。気の向いたところで車を止め、空から望む。二〇一四年、七月のことだった。
緩やかに流れる天塩(てしお)川を伝い、日本海へと向かう。水の透明度は抜群だった。何度も車を止めた。海岸線が近くなるにつれて風が強まり、潮の香りが増していった。
日本海に出た。右を見ても左を見ても、何もない。水平線から地平線へとつながる、平らな世界だった。その境に、道が一本、南北に走っている。
木々はない。地面には、ササだけが生えている。
海岸線を北上する。ところどころ、風力発電の鉄塔が並ぶ。トンネルのような長いシェルターが現われた。風雪から車を守るためのものだった。
いつしかあたりは、広大な酪農地帯に変わっていた。刈り取られた牧草は、大きなロールとなって転がる。広大な牧場には、ゆっくりと牛が歩く。日本最北端まで四〇キロ。そこには異国を思わせる、牧歌的な景色が広がっていた。僕はサロベツ原野にいた。地元の飛行仲間の協力を得て、刈り取られた牧草地を離発着場所に使用することができた。牧草地にキャンプし、風が収まるころ離陸。行き先は風しだい。日本で実行できる空の旅の、最高の形ではないだろうか。心弾んだ。

 

開拓民の末裔

フライトの準備をしていると、牧草地の持ち主、山川重善さん(六三歳)が軽トラでやって来た。挨拶に近づくと、「あーこわい、こわい」と意表を突く言葉に、僕は戸惑った。話を聞くと、「こわい」とは「疲れた」の意味で、北海道の方言だった。
山川さんは生粋のドサンコ(北海道生まれ)だ。祖父の代に、開拓民としてサロベツ原野に入植。戦後、樺太や満州から引き上げてきた人たちは、食糧難からサロベツ原野に入ったという。
祖父の代は畑作。母の代に牛を飼いはじめ、そして山川さんの代になった。当時、あたりには七〇戸ほどあったが、今では一六戸に減った。山川さんは所有地を少しずつ増やし、現在、九〇ヘクタールの広大な敷地のもと、酪農を営んでいるという。
「お爺さんが東北からやって来て、お母さんは岐阜から。そして、お嫁さんは静岡からって言いましたが。みごとに全国に散らばってますね?」。遠慮なしに聞いてみた。「さっき、若い女の子見たろ」。どうやら、牛の世話をしていた、二〇代半ばの女性のことを指しているらしい。
酪農研修、という言葉を教わった。日本各地からサロベツにやってきて、家族の一員となって酪農を体験してもらうことで自立を支援する、というプログラムだという。「じゃ、そのまま、本当の家族になっちゃったんですね」と聞くと、「俺の嫁はそうだけど。けっこう多いんだど、昔から」。山川さんは眼を細め、話してくれた。
「あんた、空飛ぶんなら、空から利尻富士を眺めてくれないか。ここから見るのが一番さ。あとな、サロベツ原野の周りに生える緑の草は、ササだ。あれはちょうど人間の背丈ほどでね。その下は湿原のぬかるみさ。もし不時着でもしたら、出てくるの大変だから、気をつけるんだど」。風のように旅し、流れるようにフライト準備が整っていった。

牧草地として活用される湿原。地下水位が下がったことで植生が変わり、ササが牧草地や湿原を覆うようになった。

ファインダーに入りきらない緑の海

離陸。
足下には広大なアシの湿原が広がった。緑の海だった。日本で、こんなに広い景色が望めるとは。撮るという行為が、煩わしくなっていた。ファインダーというちっちゃな枠に、どうやってこの景色を入れこめばいいのか。
大きく三六〇度旋回した。緑の湿原から、黄金色の牧草地、そしてその境には、漆黒のサロベツ川が流れていた。広大な景色を前にし、撮影の起点を見つけられなかった。僕はフライトラインを見失っていた。迷ったあげく、湿原に刻まれた鹿の足跡を追うことで導いてもらった。グングンと内部に入り込んだが、変わらずに緑の海が続いていた。湖沼で野鳥たちは羽を休め、山吹色のエゾカンゾウの花がポツリポツリと咲く。共に緑の海のアクセントだった。
湿原は人を寄せつけない。そして、そこは鹿と野鳥の楽園だった。

湿原に刻まれた開拓の跡

着陸するや、僕は山川さんに聞いてみた。一つは、湿原を蛇行するサロベツ川が、不自然に直線になっていたこと。もう一つは、湿原と牧草地の境に走る水路について。僕は、湿原の際に見え隠れした、人工的な水路が気になっていた。
山川さんは煙草に火をつけ、ゆっくりと話してくれた。「それはサロベツ原野の開拓の跡だ」と。「ここは、とにかく寒い場所で、農作物が作れないんだよ。五月末まで霜がつき、九月末には再び冬が始まる。品種改良を試みるのは、どこの開拓地でも同じだけどさ。ここは特に雪解けの洪水と、夏の水害の影響が大きくてね。そもそも、この場所は泥炭地といってね」
泥炭地。普通、植物は朽ちると腐敗し、微生物の分解によって土に戻る。そして再び耕作ができる。だが、サロベツは極めて寒冷な気候のため、微生物の分解が植物の朽ちる早さに追いつかない。その結果、植物の残骸は黒褐色をした粘土状のまま堆積し続ける。さらに、泥炭地は水はけが悪く、ぬかるむ。土は強酸性で養分がなく、耕作するには不向きという性質をもっている。「選択肢はなかった。この湿原で、何とかするしかなかったんだよ」と山川さんは言った。

1960年代の拡幅工事で、サロベツ川が直線化している。背後のパンケ沼にはタンチョウ鶴や水鳥が飛来する。

泥炭地に暮らしを築く

サロベツ原野で生きる。それは、湿原で生き抜くことだと知った。そのぬかるむ泥炭の上に、暮らしを築き上げなくてはならない。泥炭地の改良は、避けては通れない道だった。
水はけのよい、乾燥した土地をつくるため、川をショートカットする。放水路を確保し、側溝を開削し、湿原の水を抜く。空から望んだサロベツ原野。その節々に見えた人工的な痕跡は、先人が下した開拓の歴史そのものだった。
夕方。利尻富士を望むフライトを試みた。オレンジ色に染まる空を背に、日本海からせり上がるシルエットの利尻富士(一七二一メートル)。雲の影には礼文島がたたずみ、さらにその奥にはロシア大陸を意識させた。
サロベツ原野の立ち位置を、望むことができた気がしていた。同時に、もどかしさも感じていた。泥炭地に生きた開拓民の汗は、いくら想像しようにも追いつけない。
きっと先人も、夕日にたたずむ利尻富士を望んだことだろう。その時、何を思い、どんなひとときを送っていたのだろうか。

夕日にたたずむ利尻山。サロベツ原野より西に25km。

 

文・写真=エア・フォトグラファー 多胡 光純〈たご てるよし〉

1974年東京都生まれ。京都府木津川市在住。獨協大学卒。学生時代は探検部所属。

主な活動に「マッケンジー河漕飛行」「天空の旅人 紅葉列島を飛ぶ」などがあり、旅とモーターパラグライダーによる空撮を軸に作家活動を行っている。2014年12月には10年間の活動をまとめたDVD『天空の旅人シリーズ』3作を同時リリース。販売はwww.tagoweb.netにて。

 

写真=本間伸彦

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